勝手気ままのままでは

二宮金次郎はいいました。 人の道とは、人がつくったものであり、自然に行われ る天理とはまったく違っていると いうことは先に述べた通りだ。天の理とは、たとえば 春は生じ、秋は枯れ、火は乾いたと ころにつき、水は低いところに流れる、というように 昼夜運動していつまでも変わらない ことだが、それに対して、人の道とは、毎日昼も夜も 人力を尽くし、保護してでき上がる ことをいうのである。 したがって、人の道は、天道の自然に任せておけば、 たちまち廃れてしまって行われな くなってしまう。だから、人道というのは、情欲に心 が支配されるときは成り立たないものなのである たとえば、広々とした海の上には道などないように見 えるが、航路を定めてこれによら なければ、岩にぶつかってしまうだろう。陸上の道路 も同じように、勝手気ままに行けば、 物や人と衝突する。言語も同じように、思ったことを そのまましゃべれば、たちまち争いが生ずるのである。 人道というのは、欲望を抑えて感情をコントロールすることを勤めるときにはじめて成 立するものだということは、よくよくわかっておいた ほうがいい。うまいものを食べたい とか美しい服を着たいと思うのは自然な感情である。 しかし、これにブレーキをかけ、我慢をして、家の財産の範囲にとどめることが大切だ。 身体の安逸·箸修を願うことも、また同じ。好きな酒を控え、安逸を戒め、美食,美服 の願望を抑え、自分の分限の内からさらに倹約して生 じた余分を他人に譲り、将来に向け て譲るべきで、これを人道というのである

人道は水車のごとし

二宮金次郎はいいました。 人の道は、たとえてみれば水車のようなものだ。その 形の半分は水流に従い、もう半分 は水流に逆らって回転する。全体が水中に入れば、回 らないで流されるだろう。また、水 から離れたら回るはずがない。仏教において高徳の僧 が世を離れ欲を捨てることは、水車 が水から離れてしまっていることに似ている。逆に、 凡俗の者が教義も聞かず、義務も知 らず私欲一辺倒に執着するのは、水車全部を水中に沈 めることに似ている。 それらはともに、社会の役に立たない。それゆえ、人 の道では中庸を尊ぶ。水車の中庸 は、ちょうどよいほどに水中に入って、半分は水流に 従い、半分は逆らって止まらずに回 転することをいう。人の道もそのように天理に従い種 を蒔き、天理に逆らって草を取り、 欲に従って家業を励み、欲を制御して義務を考えなければならないのである。

天の理と人の理

二宮金次郎はいいました。

世界はくるくるまわり、止むことがない。

寒さが去れば暑さが来て、暑さが去れば寒さが来る。

夜が明ければ昼となり、昼になれば夜がくる。

生まれた子どもは刻々と年を取り、築いた堤防は時を刻むごとにくずれ、ほった堀は日々夜々埋まり、葺いた屋根は日々夜々腐る。

これはすなわち

天の理

である。

 

しかし人の道はこれとは異なる。

風雨定めなく寒暑往来するこの世の中に、人間は羽毛も、鱗もなく生まれてきて、家がなければ雨露も凌げず、衣服がなければ寒暑を凌げない。

そこで、人間は家を作ることを善とし、壊すことを悪とした。

米を取れる稲を善とし、雑草を悪とした。

このように、人は人の道というものを立てたのである。

天理からみれば、稲や雑草に、善も悪もない。

天理に任せれば、全て荒れ地となり、元の姿に戻る。

なぜなら、これが天理自然のみちだからである。

そもそも、天には善悪がないから、稲と雑草を区別せず、種あるものは、みな成長さる。

人道は天理に従うが、そのなかでそれぞれを区別して、人に有利なものを善とする。

人の道は、長い歴史の中で、優れた人がこしらえてきたものである。

人の道は、たやすく壊れてしまう。

 

天の理と人の理はことなること、人の理は長い歴史の積み重ねであること、そして、たやすく壊れてしまうことを十分承知しなくてはならない。

報徳元恕金

こんにちは

へこみんです

 

前回は五常講についてお話しましたが、今回は、報徳元恕金というものについてお話します。

金次郎は桜町の復興のめどがついた際に、小田原藩主大久保忠真から褒美をもらうことになりました。

しかし、金次郎はその褒美をうけとりませんでした。

桜町が復興できたのは、武士が分度を守ったり、努力やガマンをしたおかげだとして、その褒美を使い、困窮する武士たちの救済のための基金をつくりました。

それが報徳元恕金です。

この基金は無利息で貸し与えられ、五ヵ年賦、七ヵ年賦、十ヵ年賦で返済され、それぞれの返済の終了後には、五・七ヵ年賦では一ヵ年賦分、十ヵ年賦では二ヵ年賦分を強制でなく、冥加金として自主的に納めることになっていました。この利率はは五ヵ年賦では、五分四厘余、七ヵ年賦で、四分二厘余、十ヵ年賦では二 分九厘余であり、当時一般的に行なわれていた貸付利率が一割五分から二割 であったことに比較すると、五常の精神を如実に語る破格の安さでした。

つまり、高利子の借り入れを、低利子に振替ることで、困窮から救うというものです。

冥加金により増えた資金は、また次の困窮者を救うために使います。

資金が増えることで、救える人数も増えていくんです。

この方法は、武士だけでなく、農村復興でも行いました。

農村復興では、極貧の者に対して、自力ではできかねる家・小屋の 普請や屋根のふき替えなどの費用、そのほか食料・種殻・農具・肥料などの 購入代、あるいは水難・火難・病難など、不慮の災難による出費に窮している場合は、無利息で五カ年賦・七カ年賦・一〇カ年賦で報徳金を貸し付け、 とりわけ困窮が著しければ暮らしが立ち直るまで無利息の返済猶予で貸与 し、一人も困窮艱難の憂いのないように取り計らってあげる」 という精神で貫かれていました。報徳元恕金の意味は、金次郎が服部家老の使用 人の間で組織化した初期の五常講に底流する互助の精神に基づく勤勉・倹約・ 推譲の励行であり、自他相互の恕いやりと恵みを施す「元手金」という意味です。この報徳元恕金は、天保年間の大飢饉に際して飢渇に陥った多く の農民を救出したのでした。

 

今回は、この辺で。

 

五常講

こんにちは

へこみんです

二宮金次郎が発案したものに、五常講というものがあります

今回は五常講についてはなしたいとおもいます。

金次郎が大切としていた道徳の根幹としていたものが儒教です。

その儒教の教えに五常というものがあります。

五常とは、人間が大切にすへぎ五つで、仁(思いやり)、義(正しいと思う事をする)、礼(礼儀作法)、智(知ること、学ぶ事)、信(信じる心)の五つのことです。

五常講は、この五常を守ることを条件とする道徳心を担保とした金融制度のことです。

金次郎は、武家奉公人のときに、服部家の用人や中間や女中ら同輩そしてその家族から借金の要望 に応じるため、金を預かってそれを他に貸して利子を増やすということや、借金の返済から将来の生活の在り様について相談に応じていました。こうした同僚の家計相談に応じて居る間に「五常講」とい う相互扶助の仕組みを考え付きました。

五常講の基金は、金次郎の恕いやりと自律を促す指導の下で集められ、運用されました。

お釜の底に積もる煤を丹念に削り取って火力を強め、 薪を節約した代金、お灯明の蝋燭の使用時間に制限を設けて節約した代金や、休みの取れた日に農作業を手伝って稼いだ手間賃、夜なべの縄綯いで稼いだ代金、不要になった品物を売り払った代金等々でした。金次郎は以上のように基金を産み出すのに努力を惜しまなかった出精者には褒美の金品を与え、また、その資金は使用人部屋の普請や誤って壊してしまった物品などの購入などにも当てていたといわれています。使用人たちは相互の信頼によって培われてくる勤勉や倹約への自らへの励行が五常講の存立・維持であり、その行動が自分たちに役立ち得るものとして理解しました。
また、この五常講は下級武士に対してもおこなわれました。

金次郎が 家政の困窮状態に陥った家老服部十郎兵衛の依頼を受けてその家政再建に当っていたときに、その関係を通じて見えて来る武士の生活環境、下級藩士も俸 禄だけでは生活出来ず、それを内職で賄おうとしてもその材料を買うお金に さえ困っていました。その窮状を察して、金次郎は家老の吉野図書に対し藩士の間 で五常講の実施を進言し、300両を与えられました。

そこで、その300両を3組に分け、1組100両を100名の連名記帳を行い、 1両ずつ100日無利息で利用し、もし、その1両を借りた者が延滞した場合には、その者から下へ10名が弁償し、100両が揃わない時は貸付を停止す るという約束事の下に成り立っていました。

「世の中は道(約束)によって金が融 通されるものである。ただし借りたものは、借りた時の心を忘れず返済すれ ば道の一つを守ったことになる」

約束を守るという義務の完全な履行に よって信頼という善が生まれ、それが更に新たな約束を成立させます。この五常講の1両に助けられた人は、その時の感謝の気持ちに対して、何らかの徳(行為)をもって報いなければなりませんでした。

このことを五常の教えをもって説明すると、次のようになります。
多少余裕のある人から、余裕のない人にお金を差し出すことが必要です。いわば推譲といっていいでしょう。これが仁です。そして、借りたほうが約束を守って正しく返済することを義といいます。また約束を守った後、必要な資金を推譲してもらったことを感謝して、その恩義に報いるために冥加金を差し出したり、また、返済について貸付金に当てるときも、決して威張ったりしないこと、これを礼といいます。また、どのようにして余財を生じ、借りた金を早く返すか、つまり約束を迅速確実に守るかである仁義礼智信の五つが必ずともなっているのです。

この様に、道徳と金融を融合させ、貧困者をすくう方法をあみだしました。

 

以上五常講の説明でした。

 

その後の金次郎について

こんにちはへこみんです。

今回は金次郎の難関その二です

 

仕法を、様々な村々で実施して、弟子もついていた金次郎ですが、小田原藩が急遽仕法を中止します。

一体何が起きたかはっきりとわかっていませんが、藩主大久保忠真がなくなったことが大きな要因です。

藩主大久保忠真は身分が低くても、有能な人を見抜いて、重用する人でした。

金次郎の仕法の最大の理解者であり、後ろ盾でもありました。

しかしそんな大久保忠真がなくなってしまったのです。

先にも説明してますが、武士の中で、金次郎への反発は根強く、藩主が亡くなったことで反金次郎の声が大きくなり、仕法を中止にさせます。

このあと、金次郎は幕府に召し抱えられるのですが、完全に小田原藩の厄介払いでした。

そのため、小田原の人々は金次郎との往来を禁止され、金次郎は二度と小田原の土を踏むことができなくなってしまいました。

このあと、幕府の役人として、今の日光で仕法を行いますが、病に伏せてなくなってしまいます。

1856年70歳でした。

二宮金次郎がなくなったあと、

弟子たちは、各々で報徳仕法を実施していきます。

富田高慶は、相馬中村藩で仕法を実施し、見事に藩を立て直します。

そして、富田高慶は、二宮金次郎の伝記「報徳記」を執筆します。

時はたって明治時代になります。

相馬中村藩の相馬充胤は、明治天皇に拝謁した際に、富田高慶の書いた報徳記を明治天皇に上納します。

報徳記を読んだ明治天皇は大変感心し、金次郎を子どもたちの手本にしようと考えました。

そこで、修身の教科書にとりいれ、全国に普及していきます。

その流れで学校に金次郎像も設立されていきました。

駆け足でしたが、ざっと金次郎のことを紹介できたとおもいます。

次回からは全体の補足説明をしていきたいと思います。

 

 

金次郎と相馬中村藩と富田高慶

飢饉を乗り越えた金次郎のもとには多くの人が教えを請うために集まってきました。

その中に金次郎の教えを受け継ぐ弟子の一人に富田高慶という人がいました。

富田高慶は、1814年六月、相馬中村城下に産まれました。
 17歳のときに江戸に出て、相馬中村藩を発展させるため、勉強に励みました。
  27歳のとき同門から聞いて知った二宮金次郎の弟子となるため、わずかの書籍を売り払って旅費を作り、二宮を訪ねました。、
 しかし最初、二宮に儒者に用はない、と言って会わせてもらえなかったので、谷田貝村太助の家に止まらせてもらい、して付近の子弟に読書を教えながら、時々二宮をたずねて、戸外から師の話に耳を傾けたりして数ヶ月に及びました。金次郎は、ようやくその熱意に感心して、入門がみとめました。
 金次郎が実践していたのは実学で、実地の学問でした。測量、建築土木など帳面付け、経費の計算、などから指導を受けました。
 入門の翌年、師に従って小田原に向かう途上で富田は江戸の相馬藩邸に出向いて家老草野正辰に二宮のことを話しました。草野は二宮の人物の偉大さを知って、高慶の訓育をよろしく頼むとの依頼する書簡を送っています。
 藩主充胤、江戸家老草野、国家老池田図書胤直らは、高慶を通して早くから金次郎を知っていましたが、その仕法の導入を願いながらも、反対も多く、未知の政策が相馬で実施されるまでにはかなりの年月を要しました。
 尊徳は多忙ななかにも相馬のために為政鑑をしるして、分度を立てました。分度とは先にも説明してますが、適正財政つまりは緊縮財政のことです。

 ある日、尊徳は充胤に面会し、相馬からの要請を受けて仕法の実施を引き受けることを伝えましたが、しかし、金次郎自分 身は相馬には行かず、高慶を自分の身代わりに、といいました。
 「貴藩の富田は我が門に入ってから苦学数年、その道に熟練した。貴藩の求めで仕法を行うことになったが、自分は公務で忙しいので富田を代理にする。私だと思って万事相談されたい」といいました。
 かくして高慶は帰国して、相馬で報徳仕法を実施し、以後、二宮の事業を助けながら、故国相馬の事業を指揮しました。

 

続きは次回に書きたいと思います。