本多静六について

f:id:hekominchan:20210916173849j:image本多静六は日本の日本の林学者、造園家、株式投資家。日本の「公園の父」といわれる。苦学して東大教授になり、「月給4分の1天引き貯金」を元手に投資で巨万の富を築き、大学定年退官と同時に全財産を寄付した人物です。

静六は1866年に現在の埼玉県久喜市の折原家に生まれました。

折原家は代々村役人を務める裕福な家庭でしたが、静六が9歳の時に父が急になくなり、貧しい生活を余儀なくされました。それでも静六は家の仕事を手伝いながら勉強をつづけました。14歳のころ祖父の許しを得て、東京の島村家の書生として住み込むことになりました。

17歳の春3年にわたる書生生活を終えた静六は、 新しくできた東京山林学校に入学しました。しかし、一学期の数学の試験で落第してしまいました。貧しい生活の中から学費を出してくれた家族に申し訳ないと思い、寝れない夜を過ごしました。 翌日島村先生に落第の成績表を見てもらうと、「失敗は成功のもと、 君が一心で立ち向かったなら問題はあるまい。落第したことを私に話しただけで、 君の役目はもう済んだ。」 と話し、成績表を破り捨てました。これを見た静六の心は晴れ、 新たな努力を決意し、 勉強に励みました。 その結果成績

はあがり、今度は最優等生になることができ、 学校から銀時計をもらいました。静六は努力すれば必ず成功できることを学んだのです。

22歳の時静六に婿養子の話が舞い込みました。 相手は元武士で元彰義隊の本田敏三郎の娘で、詮子という人でした。 詮子は当時日本で4人しかいない女医の1人という才女でした。

しかし養子に気が進まない静六は、ドイツに留学させてくれるなら、 という条件を出します。

この時の留学費用は莫大な金額がかかりましたが、本田家は静六を気に入り婿入りが決まり、苗字を折原から本多にかえました。 25歳にしてミュンヘン大学で博士号を取得した静六は帰国後すぐに今の東京大学農学部助教授となりましました。この時自分の一生の生き方、すなわち「人生設計」を立てました。 65歳までは一生懸命働動くこと、85歳までは社会に奉仕すること、 そして120歳までは老後を楽しむことと決めました。 また併せて、毎日原稿用紙1枚の原稿を書くことと、給料の四分の一天引き貯金を決めました。支給された給料の四分の一は強制的に貯蓄するというものです。

静六は「給料40円もらったら、30円しかもらわなかったと思って10円天引きすればよい。米が4俵取れたら3俵しか取れなかったとおもって1俵分を別にすればよい。 米は今年より来年が殖えるというわけにはいかないが、給料は順当にいけば必ず増える。 辛抱さえすれば段々天引き残余が増していくのである」と語っています。

静六は東京大学の授業だけではなく、演習林の管理や、 大隈重信から早稲田大学の講師を依頼されたりと多忙な日々を送ります。

明治33年に学位が改定されると、日本で初めて林学博士に任命されます。 また、 教務の余暇を利用して、 山林の活用や、 林学宣伝の啓蒙活動に務めました。

そのほか日比谷公園の設計、 明治神宮の造林、 国立公園の創設に携わるなど大きな実績を残しました。

そして1927年の定年退職を機に、家族に最小限度の財産を残し、 学校、育英、 公益の関係諸財団へ匿名で寄付をおこないました。


本多静六の名言

世の中には濡れ手で栗を掴むようなうまいことがそうざらにあるわけではない。

手っ取り早く成功しようとする人は、手っ取り早く失敗する人である。

真の成功には速成もなければ、裏道もない。あせらず怠らず、長い道を辛抱強く進んでいくよりほかはない。


愚鈍な生まれつきでも、努力次第で何事も成功する。

私が平凡愚劣の生まれつきをもってしかもなおかつ割合に幸福感謝の長い人生を享楽しえたのも、ひとえにこれ、早くから自らの「人生設計」をたてて、実行に努力してきたおかげである。


満40歳までの15年間はバカと笑われようが、ケチとののしられようが、一途に奮闘努力、検約蓄財、もって一身一家の独立安定の基礎を築くこと。

人の長所を用いれば、世に捨てるべき人物なく、人の短所を責め完壁を求めれば、天下に用いるべき人物はいなくなる。


もし、やむを得ず他人の説や他人お仕事を批評する場合には必ずその改良案を添えることである。

単に人の説を攻撃し、破壊するだけでは、世のためにならないばかりではく、かえって恨みを買って敵を作ることにより、成功するうえで大損である。