金次郎と相馬中村藩と富田高慶

飢饉を乗り越えた金次郎のもとには多くの人が教えを請うために集まってきました。

その中に金次郎の教えを受け継ぐ弟子の一人に富田高慶という人がいました。

富田高慶は、1814年六月、相馬中村城下に産まれました。
 17歳のときに江戸に出て、相馬中村藩を発展させるため、勉強に励みました。
  27歳のとき同門から聞いて知った二宮金次郎の弟子となるため、わずかの書籍を売り払って旅費を作り、二宮を訪ねました。、
 しかし最初、二宮に儒者に用はない、と言って会わせてもらえなかったので、谷田貝村太助の家に止まらせてもらい、して付近の子弟に読書を教えながら、時々二宮をたずねて、戸外から師の話に耳を傾けたりして数ヶ月に及びました。金次郎は、ようやくその熱意に感心して、入門がみとめました。
 金次郎が実践していたのは実学で、実地の学問でした。測量、建築土木など帳面付け、経費の計算、などから指導を受けました。
 入門の翌年、師に従って小田原に向かう途上で富田は江戸の相馬藩邸に出向いて家老草野正辰に二宮のことを話しました。草野は二宮の人物の偉大さを知って、高慶の訓育をよろしく頼むとの依頼する書簡を送っています。
 藩主充胤、江戸家老草野、国家老池田図書胤直らは、高慶を通して早くから金次郎を知っていましたが、その仕法の導入を願いながらも、反対も多く、未知の政策が相馬で実施されるまでにはかなりの年月を要しました。
 尊徳は多忙ななかにも相馬のために為政鑑をしるして、分度を立てました。分度とは先にも説明してますが、適正財政つまりは緊縮財政のことです。

 ある日、尊徳は充胤に面会し、相馬からの要請を受けて仕法の実施を引き受けることを伝えましたが、しかし、金次郎自分 身は相馬には行かず、高慶を自分の身代わりに、といいました。
 「貴藩の富田は我が門に入ってから苦学数年、その道に熟練した。貴藩の求めで仕法を行うことになったが、自分は公務で忙しいので富田を代理にする。私だと思って万事相談されたい」といいました。
 かくして高慶は帰国して、相馬で報徳仕法を実施し、以後、二宮の事業を助けながら、故国相馬の事業を指揮しました。

 

続きは次回に書きたいと思います。