水の教え 氷の教え

先生はおっしゃった。 大道というのは、たとえると水のようなものだ。よく 世の中を潤して、停滞しないものである。 しかし、このように尊い大道も、文字にして書物にしただけでは、世の中を潤すことな く、役立つことはない。これはたとえば水が凍ってい るようなもので、もとは水には違い ないけれども、そのままの状態では潤すことができ ず、水の役目を果たすことはできない。 それから、書物の注釈というものは、この氷に氷柱が 下がっているようなもので、氷が 溶けてまた氷柱になるのと同じことだ。これも同様に やはり世の中を潤さず、水の役目を 果たしていないといっていいだろう。
さて、この水となった経書(『四書五経」など儒教の基 本的な教えを記した書物)を、世の 中の役に立てるには、胸中の温気によって、その内容 をよく溶かして、もとの水として用 いなければ、世の中を潤せず、実に無益なものになっ てしまうだろう。氷を溶かす温気が胸中にないのに、氷のまま使って水の役目を果たすも のだと思っているのは、たいへん愚 かなことだ。神儒仏の学者がいろいろいるけれども、 世の中の役に立っていないのはこの ためである。よく考えられよ。 だから、私の教えは、実行を尊ぶ。仏教の経文とい い、儒教経書といい、その「経」 というのは、機織をするときの縦糸"のことである。 機織は縦糸だけでは織ることがで きない。実行という 横糸"を毎日織り込んでいって、 はじめて役に立つのである。実行 という横糸を織らずに、ただ縦糸だけでは無益なこと は、説くまでもない明らかなことだろう。

 

両全の道

先生はおっしゃった。 世界の中で法則とすべきは、天地の道、親子の道、夫 婦の道、農業の道という四つの道 だ。この道は、実に両者が双方ともに完全な道であ る。どんなことでも、この四つの法則 を規範とすれば、間違いはない。
私がかつて、
「おのが子を 恵む心を 法とせば 学ずとても道に到ら ん」
と歌に詠んだのは、この心を指してのものだ。 天は生み育てる徳を下し、地はこれを受けて発生して いく。親は子を育て、損益を忘れ てひたすらその成長を楽しみ、子供は育てられて父母 を慕う。夫婦の間においても、お互 い楽しんで、子孫が相続していく。農夫は勤労して、 植物の繁栄を楽しみ、草木もまた喜 び繁茂する。みなお互いに苦しみがなく、喜びの気持 ちがあるだけだ さて、この道を規範として従うときは、商売は売って 喜び、買って喜ぶことができる売って喜び、買って喜ばないのは、道ではない。買って喜び、売って喜ばないの、釘はない。貸借の道も、また同じだ。借りて喜び、貸して喜ぶようにすべきだ。借りて喜び、貸して喜ばないのは、道ではない。貸して喜び、借り
て喜ばないのも、道ではない。
あらゆること、このように私の教えは、これを法則としている。だから、天地の生み釘てる心をわが心とし、親子と夫婦の情に基づいて損益を度外視し、国民が潤い、土地が復興することを楽しむのである。そうでなければ、私の行う事業はできないことなのである。
無利息金貸し付けの道は、元金が増加するのを長所とせず、貸付高が増加することを長所とするのである。これは利をもって利とせず、義をもって利とするという意味である。
元金の増加を喜ぶのは、利心である。貸付高の増加を喜ぶのは、善心である。こうして元金はもとの百円のままで、増 減がなく、国家国民のために莫大な
利益になる。 これはまさに、太陽が万物を成長させ、いつまでも太 陽は一一つの太陽でいるようなもの だ。古語(「孝経」広要道章)に「尊敬する対象は少人 数でありながら、それによって礼儀 正しい風俗が広まり、喜びを得る人たちが多くなる。 これが大切な道だ」とあるのに近い。 私がこの貸し付けの方法を立てたのは、世の中で金銀 を貸して返すように催促し尽くした後に裁判を願い、そうやっても取れないときになって、無利息年賦とするのが通例であ
る。だから、この理屈をまだ貸さないうちに見て、この方法を立てたのである。しかし、それでもまだ不十分なところがあるので、「無利息何年据置き貸し」という方法も立てたのである。 このようにしなければ、国を復興し、世の中を潤せな いからだ。すべてのことは、将来 行き着く先を事前に見定めることにある。人は生まれ たら、必ず死ぬものだ。死ぬものだ ということを、事前に覚悟しておけば、「生きている だけ一日一日がありがたい」と思え るだろう。これが、私の道の悟りである。 生まれ出て、死のあることを忘れてはいかん。夜が明 けたら、暮れるということを忘れるなよ。

鼠の地獄 猫の極楽

吉凶·禍福·苦楽·憂歓などは、相対して表裏一体のもの である。 なぜなら、猫が鼠を捕ったとき、猫にとってそれは楽 しみの極みだが、捕られた鼠にと っては苦しみの極みであるからだ。蛇の喜びが極まる とき、蛙の苦しみが極まる。鷹の喜 びが極まるとき、雀の苦しみが極まる。猟師の楽しみ は、鳥獣の苦しみである。漁師の楽 しみは、魚の苦しみである。 世界の事物はみなこのように、こちらが勝って喜べ ば、あちらが負けて悲しむ。こちら が田地を買って喜べば、あちらは田地を売って苦し む。こちらは利益を得て喜べば、あち らは利益を失って悲しむ。人間世界は、みなこんなも んだ たまたま悟りの門に入る者もあれば、これを嫌って山 林に隠れ、批世の中を逃れてこれを 捨てる者もいる。これでは、世の中の役には立たな い。その志や行動は尊いように見える 世の中のためにならなければ、褒めるに足らない。

ところで、あっちも喜びこっちも喜ぶという道がない わけではない。それは天地の道、 親子の道、夫婦の道、農業の道という四つの道だ。こ れは法則とすべき道だ。よく考えられよ。

積小為大

大事をなそうと思ったら、まず小さなことを怠らず勤めなければならない。小が積もってはじめて大となるのである。 失敗する人の常として、大事をなそうとして小事を怠り、難しいことを心配して、やりやすいことを勤めないから、結局大事をなすことができないのだ。それは「大は小を積んで大となる」ことを知らないからだ たとえば、百万石の米といえども、米粒が特別大きいわけではない。万町歩の田を耕す 場合でも、その作業は一鍬ずつの仕事からである。千 里の道も一歩ずつ歩いて到達する 山をつくるときも、ひとモッコの土からなるというこ とをしっかりとわきまえて、気持ちを奮い起こして小さなことを勤めていけば、大きなこ とも必ず成就することができる。 小さなことをいい加減にする者は、大きなことも必ずできないのである。

道を尽くす

二宮金次郎はいいました。 「道を実行することは難しい。道が行われなくなって久しい。才能があっても、カがなかったときは行われないし、 才能や力があっても、徳がなければまた行われない。徳があっても、 位がないときはまた行われないだろう」 そんなことを聞くことがある。 けれども、これは大道を国家天下のもとで行う場合ではないか。それならば、難しいの は当然である。しかし、私の道(仕法)を行うときには、人物がいないことや位がないことを心配したりはしない。

茄子をならすのは、茄子づ くりの百姓が立派にこさえればいい。
馬を肥やすのは、馬子がみごとに育てればいい。一家をまとめるのは、亭主がうまく行えばいい。あるいは兄弟親戚、朋友同志がお互い結束してこの道を行えばいいのだ 人々がこの道を尽くし、家々そして村々がこの道を踏み行えば、どうして国家が復興しないことがあるだろうか。

柿を選ぶのにも

若者が数名いた。二宮先生は彼らに諭しておっしゃった。

世の中を見てみなさい。一銭の柿を買うのにも、二銭の梨を買うのにも、芯がまっすぐでキズのないものを選んで取るだろう。また、茶碗ひとつ買うにも、色のいいもの形のよいものを選び撫でてみて、音を鳴らして聞き、選りに 選んで取るものだ。世の中の人は、 みなそうだ。

柿や梨は買っても、味や品質が悪ければ、捨てればよいものなのに、こういうものさえ、ここまでして選ぶのだ。

ならば、人に選ばれて、婿や嫁となる者、あるいは仕官して立身を願う者は、自分の身にキズがあっては、人が取ってくれないのは当然のこ とだ。 自分がキズをたくさん持っているのに、上に立つ人に 用いられなかったとき「自分を見る目がない」などと上の人を悪くいって非難するのは、大きな間違いである。自らを省みよ。必ず自分の身に、キズがあるからに違いない。

人の「身のキズ」とは、たとえば、酒が好きだとか、 酒の上での不好だとか、放蕩したとか、勝負事が好きだとか、惰弱だとか、無芸だとかが 挙げられるだろう。

何か一つか二つのキズがあるならば、買い手がないのも当然だ。 これを柿や梨にたとえれば、芯が曲がって渋そうに見えるのに似ている。人が買わないのも、無理はない。このことをよく考えなければなら ない。古語(『大学」伝六章)に「心 の中の真相は、必ず外にあらわれる」とあるが、キズ がなく芯がまっすぐな柿が売れないはずがない。

逆に、たとえ草深い中でも、山芋があれば、人がすぐ に見つけて捨ててはおかない。また、泥深い水中に潜伏するウナギやドジョウも、必ず人が見つけて捕らえるのが世の中だ。 そうであれば、内に真心があれば、それが外にあらわれない道理があるはずがない。この道理をよく心得て、自分の身にキズがつかないように 心がけなければならない。

四万人を救う

二宮金次郎はいいました。
私はこのとき駿河国御厨郷で飢民の救済を扱ったことがあったが、すでに米やお金も尽きて方策がない。そこで、郷中の人々に諭していった。
「昨年の不作は、ここ六十年の間でも稀なことでした。しかし、普段から農業に精を出し、米麦の余分をつくっている心がけのよい者は、さしつかえはないでしょう。今飢えに困っている者は、その多くは普段から仕事を怠けて米麦の収穫が少なく、遊びや博打を好み、飲酒に耽り、身を持ち崩し、無法なことをして心がけのよくない者なので、今の飢えの苦しみは天罰といっていいでしょう。したがって救済しなくてもよいような者なのですが、乞食になる者を見てみなさい。彼らは、無法なことや悪い行いをして、ついに住んでいた土地を離れて、乞食をするようになった者も多いのだから、強く非難されても仕方のない人たちです。しかし、こんな人たちでさえ、憐れんでお金や一握りの食べ物を恵んでやるのが、世間の通例です一方、今飢え苦しんでい 同じ風に吹かれ、吉凶·葬祭ともに助け合ってきた因縁 浅からぬ人たちですから、これを 見捨てて救済しないなどということはできません。 そこで今、私は飢えに困っている人たちのために、無利息十カ年賦のお金を貸して救済 しようと考えています。しかし、飢えに困るほどの人たちは、ひどい困窟をしていると思うので、今飢え苦しんでいる人たちは、返納はできないでしょう。 よって、来年から救済を受けなくてもさしつかえない者は、乞食に施してやると思って お金を十文または二十文出してやりなさい。そんなに 余裕がなければ、七文でも五文でもよろしい。

来年豊年になったら、天下は豊かになるでしょう。御厨郷だけが乞食に施しをしなくても、国中の乞食が飢えることはないでしょう。乞食に施す米やお金でもって無利息金の返納を補ってやれば、損をせずに飢民を救うことができます。これは両方ともにうまくいく 道ではありませんか」 こんなふうに諭すと、村の者一同ありがたく感じ、承諾した。よって、役所から無利息金を十カ年賦で貸し渡して、大いに救済することがで きた。これによって、余裕のある者 の中で一銭の損をした者はなく、飢えに苦しむ者も一 人としてなく、安心して飢箇を免れることができた。
このとき、小田原領だけで救済した人の数を、村々から書き上げて調べたところ、四万三百九十余人に及んだ。