水の教え 氷の教え

先生はおっしゃった。 大道というのは、たとえると水のようなものだ。よく 世の中を潤して、停滞しないものである。 しかし、このように尊い大道も、文字にして書物にしただけでは、世の中を潤すことな く、役立つことはない。これはたとえば水が凍ってい るようなもので、もとは水には違い ないけれども、そのままの状態では潤すことができ ず、水の役目を果たすことはできない。 それから、書物の注釈というものは、この氷に氷柱が 下がっているようなもので、氷が 溶けてまた氷柱になるのと同じことだ。これも同様に やはり世の中を潤さず、水の役目を 果たしていないといっていいだろう。
さて、この水となった経書(『四書五経」など儒教の基 本的な教えを記した書物)を、世の 中の役に立てるには、胸中の温気によって、その内容 をよく溶かして、もとの水として用 いなければ、世の中を潤せず、実に無益なものになっ てしまうだろう。氷を溶かす温気が胸中にないのに、氷のまま使って水の役目を果たすも のだと思っているのは、たいへん愚 かなことだ。神儒仏の学者がいろいろいるけれども、 世の中の役に立っていないのはこの ためである。よく考えられよ。 だから、私の教えは、実行を尊ぶ。仏教の経文とい い、儒教経書といい、その「経」 というのは、機織をするときの縦糸"のことである。 機織は縦糸だけでは織ることがで きない。実行という 横糸"を毎日織り込んでいって、 はじめて役に立つのである。実行 という横糸を織らずに、ただ縦糸だけでは無益なこと は、説くまでもない明らかなことだろう。