二宮金次郎の生涯

二宮金次郎1787年小田原藩足柄下郡栢山村(現在の小田原市栢山)の農家にうまれる。

幼いころは裕福であったが、金次郎が 5 歳の時南に、関東を襲った暴風で近くに流れる酒句川の堤が決壊し、金次郎が住む東栖山一帯が濁流に流されてしまいました。その影響で、田畑には砂が堆積し、家も流された。その後数年で田畑は復旧したが、借財を抱え、家計は貧しくなりました。

金次郎が 12歳のころ、父が眼病を患ったため、父の代わりに酒匂川の堤工事に従事するが、年少なため、他の大人と比べ働きが足りないと感じ、草雑を編んでそれを献上しました。

その2年後金次郎が14歳の時に父が亡くなったため、金次郎は矢佐芝(現南足柄市三竹)の山に、大学という本を読みながら、薪をとりに行き、夜は草雑を編み、それらを販売することで、弟2人母1人の一家4人の家計を支えました。

その2年後、貧困の中、金次郎が16歳の時に母がなくなりました。

金次郎は伯父(実の祖父)の萬兵衛に引き取られたが、再び酒匂川が氾濫し、金次郎の土地はすべて水害にあい、流出してしまいました。

金次郎は萬兵衛のもとで身を粉にして農業に励む傍ら、夜な夜な勉学に励みました。しかし、けちな萬兵衛は、「夜の明かりの元となる菜種油はただではない。農民に勉強は必要ない」と金次郎をしかりました。

そこで金次郎は菜種を譲ってもらい、それを栽培格して、菜種を増やし、取れた菜種と油を交換して、夜の明かりとし、勉学に励んだ。また、田植えの際余って捨てられていた苗を用水堀に植え、育て、米一俵の収穫を得ました。

このような倹約を行い、20 歳で家を再構し、田畑を買い戻し、得た田畑を小作にだすなどして収入を増加させました。

その後金次郎 22歳の時、自らの田畑を小作に出して、小田原の家老である服部十郎兵衛のうちに若党として奉公に出ました。これは服部家の子ども 3 人が藩校に通って学問をするときにお供できるからでした。もちろん正式に講義を聴くことはできませんが、漏れ聞こえる講義を聞き、 中国の四書や朱子学に触れることができたのです。 このころ金銭的に余裕が出てきた金次郎は、奉公先の仲間に借金を申し込まれました。この時、金次郎はお金を貸すだけではなく、貸したお金の返済を確実にするため、返済方法まで指導しました。ある女の人が借金を申し込んだときには、薪の節約の仕方を教えました。鍋の底につく炭を落として、三本の薪で鍋の底に火が丸く当たるように工夫して薪を節約し、 残りの火を利用して消して炭を作り、再利用するというものでした。さらに、残った薪を金次郎が買い取り、借金の返済に充てさせました。

金次郎が 29歳の時、借金を多く抱えていた服部家は、家政の立て直しを金次郎に依頼しました。

金次郎は依頼を受け 5 年間節約を行う計画を打診し、 計画には一切口出ししないことを条件に、立て直しを図りました。 服部家の収入は決まった額で固定されていたため、節約に励み、200両 (2000万円)あった借金を返済するようにしました。

服部家は計画通り、借金を無くしただけではなく、 余剰金まで生み出した。この際余剰金の 300 両(3000万円)を金次郎に送ろうとしたが、金次郎は受け取りませんでした。

これが評判になり、小田原藩内では名が知れ渡るようになりました。

金次郎が32 歳の時、領民の手本となる人として、小田原藩主である大久保忠真から酒匂川で表彰を受けました。この表彰は、模範となる農民として「家の再建に努力し、村のために働いた」ということで表彰されました。金次郎は、表彰には自然に人が見習うという効果と、さらに励むようになる効果があると知りました。

35 歳の時に、金次郎を見込んだ小田原藩主·大久保忠真は金次郎に小田原藩の再建を頼もうとするが、農民出身の金次郎の登用に家臣が反対したため、直接小田原藩に登用することはやめ、大久保家の親戚である旗本 宇津家の所有地である桜町領(栃木県真岡市)を復興させることを決める。まず、復興を成功さることで、小田原で登用させやすくするためである。この大久保忠真はなくなるまで金次郎の理解者であり、大きな後ろ盾となりました。

36 歳の時に桜町陣屋に赴任して再建を図るが、金次郎に反対する農民や、40歳の時に赴任してきた小田原藩士の上役である豊田正作をはじめ、上役となった小田原藩士に桜町の復興を妨害され、うまく進まないことに悲観した金次郎は41 歳の時に突如いなくなりました。

この失際は、金次郎が、自分は正しいのにもかかわらず、ことがうまく運ばないので、神仏に頼るしかないとおもい、誰にも告げず、千葉県の成田山に縮り 21 日間断食していたのでした。この断食修行で、一円融合という概念に気が付きました。世の中は、善悪、貧富、強弱、遠近、賃借など対立あるいは対称となっているものがいっぱいある。金次郎はこれをすべて一つの円に入れそれぞれが融合することにより、発展することを悟りました。自分の立場だけから、一方的に観るのではなく、対立するものを一つとしてみる。人は自分の好きな方に偏る性格を持っている。もともと一つの円のものにも己という境を立ててみるため、円は二つに分かれ、己は一方に固執してしまうものである。金次郎は一円融合を悟るまでは、自分が正しいと信じて、仕法を妨害する人は悪人だと思っていました。しかし一円融合を悟ってみるとそうではないことがわかりました。反対する人にはその人なりの理由があるし、そういう反対が出ることは、自分の誠意がたりていないからだと考えるようになりました。

金次郎がいなくなったため、農民らが困惑し、小田原藩主大久保忠真に金次郎に戻ってきてほしい旨を嘆願しました。その結果、金次郎は戻り、豊田正作は桜町陣屋詰めの任をとかれ小田原に召呼び戻されました。

この後、妨害していた農民や、豊田正作は心を改めました。

その後は復興が順調に進み、 桜町領の再建が成功した結果、小田原藩の立て直しを依頼されました。 この時金次郎が行った再建方法を報徳仕法と呼びます。金次郎が行った改革の中の一つに補助金の廃止がありました。今までは仁政を行うつもりで、金や穀物を与えていましたが、そうすることで、かえって惰民を要請してしまったのです。そこで金次郎は、荒地を開墾した田んぼに対しては5年間年貢を徴収しないようにするなど、がんばった人にたいしてマージンが発生するような政策に切り替えました。金次郎は、減税を行い、一切の補

助金を廃止することで、領内の再生を図りました。また、表彰制度を活用しました。正直でまじめな人を村民全員の帳票によって表彰し、表彰されたものには、銚や勤廉などの新しい農機具を与え、今後も表彰に恥じない努力を期待し、表彰されなかったものにはさらに努力してもらうようにしました。結果的に村民全員が表彰されるようにしました。また、名主なども表彰によって決めました。さらに借金で困っている人に対しては、報徳無利息金を貸し付けて助けたり、荒地を開拓するための資金援助を行いました。無利息金の貸付を受けた人は、その恩義をうけた謝恩の気持ちで、貸付を返済した後、返済金の1回または2回分の冥加金(おもいやりのお金)を収めることにしました。これを元金に加え、報徳無利息金を増やしていきました。また、金次郎は譲るという行為を非常に重要視していました。こんなことをいっています。例えば、田畑を買い、家を建てるのは、子孫に譲ることで、世の中の人が知らず知らずに行っています。自分に譲ることすなわち自譲は教えられなくてもできます。他に譲ることすなわち他譲は教えられなければ難しいことです。譲は結局自分の富を維持することにつながります。例えば、湯船の湯のようなもので、これを手で自分の方にかけば、湯は自分の方に来るだろうが、やがてみな向こうに帰る。これを向こうに押せば、湯は向こうに行くように見えるが、自分の方に流れてくる。獣のように譲らないのは人ではない。

天理に反するものはいつか滅亡する。富の蓄積は、あたかも土を盛るようなもので、周辺一面が低くて、一か所だけずば抜けて高く土を盛っても、少しの動播で崩れやすく不安定である。周囲が盛り上がって次第に高くなるのでなければ、安定しない。富士のすそ野が広いように、譲は自らの生活を安定させることになる。と語っています。

金次郎は天道と人道という思想を持っていました。自然の理を天道と呼び、人がいろいろと作為することを人道とよびました。金次郎は「天道は永久にすたれることはないが、人道は怠ればすぐにすたれるものであり、人道が廃れた人間の心は獣の心と同じである。自然の天道には良い悪いはなく、すべてのものに等しく影響を与え、差別はない。種があれば、雑草でも成長し、物が古くなれば壊れたり、腐ったりする。このため、雑草をとったり、堤防を築いたり、橋をかけ替えたり、家を修理したりしなくてはならない。天道のみに任せるのは、種を蒔かずに、ただ秋になる実を争って、食り食べるようなもので、奪うだけで譲ることはできない。天道の自然に逆らって種を蒔き、天道に従って成長させ、天道に反して肥料を与えて育成し、天道に従って秋に収穫して食べるのが人道である。人道の心を持てば残し、貯え、譲ことができる。それによっていろいろなものの生産量が増加し、五穀が豊かに実り、衣食が豊かになって、人は安心して生活できるようになるのである。しかし、 天道に逆らって人道をたてることは無限にできることではない。特に天道を破壊してはならない。なぜなら自然が変化し人道を建てることができなくなるから」 と説明しています。 また、人道についてはほどほどの中間がよいと考えました。

例えば、「高貴な人でも世の中から逃避するようなことをするのは、水車が水から離れるようなものである。人が教えても聞かず、義務も知らないで、私欲に走るのは水車全体を水の中に入れるようなものである。いずれも社会の役に立たない。水車はほどほどに水中に入って半分は水に従い、半分は水流に逆らってこそ廻るものである。人道は天道に従って成り立つものであって、人間は自然と闘いながら自然の恩恵によって生活できるものであるから、天道と人道は相和しなくてならない」といっています。

金次郎51歳の時大飢僅が襲うが、小田原藩が蓄えていた蔵の米を領民に配布することで、番内の飢餓を防ぐ。 このエピソードとして有名なのが、金次郎が小田原藩主の命により、小田原藩に入り、領民のためにお蔵米を開いて領民に配るよう藩の重臣に告げました。しかし、重臣たちは江戸の藩主から直接連絡がないため、結論を出しませんでした。これをきいた金次郎は怒って重臣にこういいました。「領民が飢えで苦しんでいるときに、君主の命令がないからと、評定ばかりしているのは不忠義ものである。命令がなくても後でお答めがあっても断行するのが政治をする者の務めである。もし評定を続けるのなら、飢えた人々を助けるためでもあるから断食をして続けたらよい。私もともに食を断ちましょう。」 といいました。

すると、金次郎の救済策が認められました。金次郎は直ちに下賜金千両に報徳金を加えて貸付を行いました。また、お蔵米を貸し付けたりして領民4万人の飢えをすくいました。

しかし、同年に金次郎の最大の後ろ盾であった小田原藩主が亡くなってしまいました。

その結果、まだ若い殿が藩主になったため、農民出身である金次郎に反感を持っていた反二宮金次郎派の藩士の意見が強くなり、小田原の再建は突如中止になる。

小田原の再建は中止になったが、56 歳の時、金次郎の評判を聞いた江戸幕府が、金次郎を幕府で登用することを決め、幕臣で働き始めました。

この時には金次郎を支持する人の多くが、金次郎に弟子入りしました。

金次郎は幕府から日光の復興を命じられました。日光は徳川家康をまつる日光東照宮のある2万石の神領でした。しかしながら、高地であったこともあり、田畑にするような土地が少なく、水田が少なく実際は2000石ほどしかありませんでした。天明の創肌僅後餓死者が続出し、離散する領民も多く、ますます、人口が減少して、荒廃していました。

金次郎は日光でも今まで通り仕法を行いました。3年をかけ、日光の89カ村と新田をくまなく調査し、日光仕法雛形書を完成させました。金次郎は完成させた仕法書64冊を幕府に提出しました。

金次郎が67歳の時いよいよ日光復興の仕法の着手が命じられました。金次郎の寿命が近いのは明らかでしたが、病をおして村内を自ら歩き、自ら指示を与えていきました。まず金次郎が行ったことは、農業用水の整備という公共事業でした。これにより荒地はたちまち農地となり、領民が自分のところにも新用水を分けてくれるよう金次郎に願い出るようになりました。ここで重要なことは領民のやる気を起こさせることでした。そのため、努力する者には報奨を与えました。

桜町同様に、金次郎は誠意をもって村を歩き、壊れた家屋があれば修繕するなどの処置をとり、農具を分け与え、無利息の資金を融通しました。その結果、堕落した、風潮はたちまち消え失せました。

その後さまざまな村を救い、日光での復興を行っている最中に病に倒れ、70歳で亡くなりました。

金次郎は、福島県相馬市、南相馬市大熊町浪江町飯館村、栃木県日光市、真岡市、那須鳥山市、神奈川県小田原市など全国600を超える地域の復興にかかわりました。