その後の金次郎について

こんにちはへこみんです。

今回は金次郎の難関その二です

 

仕法を、様々な村々で実施して、弟子もついていた金次郎ですが、小田原藩が急遽仕法を中止します。

一体何が起きたかはっきりとわかっていませんが、藩主大久保忠真がなくなったことが大きな要因です。

藩主大久保忠真は身分が低くても、有能な人を見抜いて、重用する人でした。

金次郎の仕法の最大の理解者であり、後ろ盾でもありました。

しかしそんな大久保忠真がなくなってしまったのです。

先にも説明してますが、武士の中で、金次郎への反発は根強く、藩主が亡くなったことで反金次郎の声が大きくなり、仕法を中止にさせます。

このあと、金次郎は幕府に召し抱えられるのですが、完全に小田原藩の厄介払いでした。

そのため、小田原の人々は金次郎との往来を禁止され、金次郎は二度と小田原の土を踏むことができなくなってしまいました。

このあと、幕府の役人として、今の日光で仕法を行いますが、病に伏せてなくなってしまいます。

1856年70歳でした。

二宮金次郎がなくなったあと、

弟子たちは、各々で報徳仕法を実施していきます。

富田高慶は、相馬中村藩で仕法を実施し、見事に藩を立て直します。

そして、富田高慶は、二宮金次郎の伝記「報徳記」を執筆します。

時はたって明治時代になります。

相馬中村藩の相馬充胤は、明治天皇に拝謁した際に、富田高慶の書いた報徳記を明治天皇に上納します。

報徳記を読んだ明治天皇は大変感心し、金次郎を子どもたちの手本にしようと考えました。

そこで、修身の教科書にとりいれ、全国に普及していきます。

その流れで学校に金次郎像も設立されていきました。

駆け足でしたが、ざっと金次郎のことを紹介できたとおもいます。

次回からは全体の補足説明をしていきたいと思います。