中江藤樹

今日は内村鑑三の代表的日本人で取り上げられた一人、中江藤樹について書いていきたいと思います。

その前に中江藤樹の根幹であった陽明学について簡単に触れておきます。

陽明学

15世紀ころの明の時代に活躍した儒学者である王陽明によって確立した儒学の一派。

陽明学の特徴は形骸化された朱子学を批判し、より実践的な倫理をといているという点です。朱子学は12世紀末ころに儒学者である朱嘉によって確立された学問体系ですが、王陽明のころになると道徳主義的な面はすでに失われていました。

朱子学の考え方は、世の中のすべてのものや事象は、理で成り立っていて、 読書など学問をすることで理解が深まる。自分が素晴らしい人間になり、人生を豊かにしてよい社会を作るためには、あらゆることをよく研究することが大事だというものです。

王陽明自身も朱子学を学び、理を極めようとしますが、挫折してしまいました。この経験から王陽明朱子学そのものに疑問を募らせ、学門をすることで理を求めるのではなく、 日ごろの生活や日々の仕事を通じて、心の中に理を求めようとしました。

王陽明が記した書物はほとんどなく、弟子たちのよってまとめられたものが、現在まで伝えられています。陽明学の思想をあらわす2つのカギ「致良知」「知行合一」 について簡単に説明します。

致良知

良知とは身分や学問の有無にかかわらず、すべての人が生まれ持っている道徳知や生命力

の根源のことで、致良知とはこの良知を全面的に発揮することを意味し、良知に従う限りその行動は善いものとみなされることを言います。

知行合一

知は知ること、行は実践することです。 朱子学では、知が先にあり、 行が後になり 「知先行後」を重視していました。つまり実践に先立って学問を行うことが重要だとしていました。

しかし王陽明は「知は行の始めにして、行は知るなり」とのベ「知行合一」を唱えました。

本題

藤樹は1608年に近江国高島郡小川村の農家中江吉次の長男として生まれました。 9歳の時に祖父中江吉長の養子になりますが、吉長が米子藩加藤家の150石の藩士であったため、親と別れて米子に赴きます。 1617年に加藤家は伊予大洲藩に転封となったため、祖父母とともに移住しました。1622年に祖父吉長が死去ししたため、15歳で家督を継ぎます。 1624年に京都から来た僧から論語を学んだことをきっかけに、四書大全を購入

して熟読しました。

やがて朱子学とであった藤樹は、 行動の細則を守ることで、武士らしくあろうと務め、 学問にもはげみました。しかし生真面目であったせいか、 武士らしくあろうとするあまり、自分に対しても他人に対しても厳しく頑頭なになり、やがて精神的に追いつめられていきます。

25歳の時、近江に一人で暮らす母を案じて迎えに行きますが、母は大洲に行くことを断りました。かつて藤樹が子供のころ、母に慕い寄った息子に対し、 いったん家を出たものが軽々しく帰るものではないと叱ったほどしつけに厳しい母でした。情然と四国の船に乗った藤樹は船内でぜんそくの発作を起こし倒れます。 藤樹のぜんそくは神経性のものであったとされており、彼の心身は武士の生活を拒んでいました。

その後藤樹は藩に対し何度も退職を願いますが、認められず、27歳のときついに脱藩して、京都にしばらく潜伏した後、故郷の小川村に戻ります。 ようやく心身が落ちつくと、刀を売り払い、そのお金で金貸しをはじめ、酒屋を営みました。そして、私塾も開きました。同時

に医学も学び、村の学問の先生兼医者という存在になりました。

塾では儒学を教えましたが、形式主義的な朱子学ではなく、人間には本来良知がそなわると説く陽明学に重きを置きました。藤樹は、頭でっかちの学問を教えるために塾を開いたのではありませんでした。人の道を伝えるために塾を開いたのです。

藤樹は孝というものが非常に大切だと考えていました。 孝というものは、相手に対する思いやりの気持ちです。 どのような人に対しても敬意をはらうことが重要だと考えていました。

この時私塾に入門したのが備前池田家を離れていた熊沢蕃山という人物でした。熊沢はその後池田家に戻り、 藩主池田光政に重用されることになります。

藤樹は儒学だけではなく、望むものには医学も教えました。その中に大野了佐という人物がいます。大野はやや知的障害がありましたが、医者になることを望んでおり、藤樹も入門を許し、漢文の医学書を読ませますが、冒頭の数フレーズを覚えるのに半日かかり、しかも食事を済ませるとすべて忘れてしまうというものでした。藤樹も教えるのに情魂尽き果てる状態になりますが、けなげに毎日通ってくる大野を見捨てることはできず、テキストを作り直し、根気よく教え続け、一人前の医者として独立させました。このような行いから、藤樹は近江聖人と呼ばれるようになりました。藤樹の教えは身分の上下を超えた平等の思想に

特徴があり、武士だけではなく、商エにまで広く浸透しました。藤樹は生涯を通して師につくことはなく、ひたすら独学で人間の道を探求し続けました。

正直馬子

藤樹の有名なエピソードとして有名なものがあります。

近江の河原市宿にいた馬子の又左衛門は、京都に急ぐ飛脚を乗せて隣の宿場まで運びました。河原市宿に戻って馬の鞍を外すと、 財布のような袋があり、200両もの大金が入っていました。又左衛門は「これは先ほどの飛脚が忘れていったに違いない。今頃困っているで

あろう」と夕暮れの道を隣の宿場町に再び向かいます。 又左衛門が飛脚の宿を探し当てると、案の定飛脚は青い顔をして荷物の中を探し回っていました。又左衛門が財布を渡し、中身が無事であることを確認すると飛脚は泣いて喜び、「これは加賀藩前田家の公金で、 紛失した

となれば、私の命だけでは済まないところでした」 と礼をいい、 命の恩人である又左衛門に謝礼を渡そうとしますが、又左衛門は受け取りません。 飛脚はそれでは収まらぬと押し問答の末、結局歩いてきた駄賃として 200 問だけ受け取り、 それでお酒を買ってきて宿の人たちに酒を振る舞い楽しそうに飲み始めました。その振る舞いに感動した飛脚が、「あなたはいったいどのような方か」と尋ねると、又左衛門は「私は名もないただの馬子です。 ただ近くの小川村に中江藤樹先生という方がおられて、毎晩のようにいい話をされるので、私も時々聞きに行くのです。先生は親孝行をすること、人のものを盗んだり、傷つけてはいけないこと、困っている人を助けることを話され、私はそれを思い出したにすぎません」と答え、自分の宿場に帰っていきました。

藤樹がのこした言葉に「学問は心の汚れを清め、身の行いをよくするを以て本業とす。」という言葉があります。 学問は博学を自慢するものではなく、自分の名前を売るためにするものではない。本来の学問は心の中の磯れを清めること、日々の行いを正しくすることにある。

高度な知識を手に入れることが学問だと信じる人たちからすれば、奇異に思うかもしれないが、そのような知識の詰め込みのために、かえって高慢の心に染まっている人が多い。というものです。

いかがだってしょうか。

コロナ禍の中で、自分だけよければいいという行動に出る人が散見される昨今で、やはり道徳心というものは非常に重要だと私は考えています。 人のためを思い行動することは人間としてもっとも大切にしなくてはならないことだと思います。 そうでなければ獣や鳥と何

ら変わりがないと思います。人のことを自分のことだと思い行動すること。少しでもそういう気持ちがあれば世の中は少し生きやすくなるのだと感じました。