江川太郎左衛門英龍

みなさん、江川太郎左衛門英龍をご存じでしょうか

江戸幕府後期の伊豆国韮山で、代官の家に生まれました。民政の充実を図るだけでなく、西洋砲術を学び、黒船前後の幕府海防政策に携わりました。そんな韮山代官江川太郎左衛門英龍についてまとめていこうと思います。

江川家は鎌倉幕府以前から、伊豆国韮山の地を支配した一族で、江戸時代に入ると相模や伊豆の天領の代官に任じられ、代々江川太郎左衛門を名乗り、世襲してきました。

韮山代官という職は、幕府に代わり、土地の年貢の取り立ての行政や軍の編成など一括して委任される重要な職でした。

英龍は 35 歳の時に江川家の家督を継ぎますが、それまでの間は江戸で学問の習得や、剣術の修行をしていました。この時生涯の親友となる斎藤弥九郎と出会いました。斎藤弥九郎は英龍から資金の援助を受けて練兵館という剣術同情を創立しました。この練兵館士学館玄武館と並ぶ江戸三大道場と呼ばれるようになるほど繋栄しました。練兵館からは桂小五郎高杉晋作伊藤博文などの維新志士を輩出しました。

韮山代官になった英龍はまず農民の生活を安定させることが重要だと考えました。そこで当時評判になっていた二宮金次郎を招き、豊田正作を交え仕法について教えを請いました。

その時のことについて、二宮金次郎はこう言っています。

二宮尊徳翁は次のように話された。

ある時、江川太郎左衛門氏が、

「桜町に入って数年で、年来の悪習を一掃し、人々に勤勉な気持ちを持たせ、広大な荒廃地を開いたと聞き及んでいる。感服しました。私も、支配地の為に、心を砕いてきて久しいが、少しも効果を得ていない。どのような秘策があるのか。」

と質問してきたので、私は、次のように答えた。

君主には君主の威光があるので、何か事を実施するのは至って簡単である。私は元々無能、無術である。しかしながら、君主の威光を用いても、或いは君主の学問を土台とした理解力があっても、実施できないであろう、茄子を成らせ、大根を太らせる術を、間違い無く体得しているので、その理屈を基本として、ただ一生懸命に努めて、怠らないようにしているだけである。

その結果、草ばかりであった場所が一変して、米が栽培できるようになった。この米が一変すれば、飯となる。この飯には、無心の鶏犬と言えども、走って集まり、犬は、尾を振れと命じれば尾を振り、回れと言えば周り、吠えよと言えば吠える。無心である鶏犬ですらこの通りである。

私は、ただ、この理屈を推して人々に及ぼし、日々の言動においては至誠を尽くすのみであり、特別な術があるわけではないのである。

その後、私が実地に行ってきた事を中心にして、談話すること六、七日に及んだ。

江川氏は、飽きずに良く聴かれた。

現在は、定めて、配下支配地区の為に、尽くされていることであろう。

 

と語っています。

また、この当時外国船が姿を見せるようになっていました。このころ日本近海に外国船が多く出没しており、国防に危機感を抱いていた渡辺華山や高野長英といった人々と交流を持つようになっていました。彼らは海防問題の改革を強く主張したいました。当時沿岸に備えた大砲は旧式で、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わる砲術を採用していました。そんな中西洋砲術を研究している高島秋帆を知り、西洋砲術を海防問題に生かす道を模索し、高島に弟子入りします。 そして老中水野忠邦より、正式に高島流砲術の伝授を認められ、それに改良を重ねた西洋砲術の普及に努め、全国各藩から派遣された藩士がこの西洋砲術を学びました。

嘉永6年(1853年)ペリー来航直後に感情吟味役に登用された英龍は老中阿部正弘の命

で、江戸湾防備の目的で砲台品川台場、今のお台場を建造しました。デートスポットで有名なお台場ですが、英龍がいなかったら、存在していなかったかもしれません。感謝です。またそれと同時に最新式の大砲を作るため、反射炉の建造を命じました。反射炉とは鉄鉄(鉱石から作った粗製の鉄で不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉です。

死鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となりますが、反射炉内部の溶解室の天井部分が浅いドーム型になっており、そこに熱や炎を反射させて、銃鉄に集中させることで高温にする構造になっています。 このように反射させる仕組みから反射炉と呼ばれています。

英龍はオランダの書物の記述のみを頼りに、反射炉の建造に取り組みました。英龍は反射炉が完成する前に病死してしまいますが、反射炉を建造していた佐賀藩の協力を得て、着工から3年半の歳月をかけ完成させました。


他には種痘の実施などがあります。天然痘飛鳥時代ころに日本に入ってきた疫病で、江戸時代にはしばしば流行し多くの命が失われていました。


そこで英龍は西洋から入ってきた天然痘の予防接種である種痘(しゅとう)を領民に推奨しました。


当時全く新しい予防法であったため、英龍は自分の子供に接種をさせることで領民の不安を払拭しようとするなどして、その普及に努めました。


また、英龍は日本で初めてパンを焼いた人物だといわれています。


国防の観点から考えると長期保存が可能な食料はとても重要なものでした。このパンは現在の食パンというよりは乾パンに近いようなものだったそうです。


ほかには、英龍は兵隊を訓練するため各種の号令をわかりやすいように翻訳させました。

それの名残で、現代でも、「気を付け」「前へ習え」「右向け右」などの号令として残っています。


いかがだったでしょうか?

私はこの江川太郎左衛門英龍を尊敬しています。

今一度、国防について考えて見てはどうでしょうか?