湯船の湯

嘉永五年(一八五二年)正月に、ある人が先生と一緒に入浴したことがあった。そのとき、先生が湯船の縁に座って、その人を諭しておっし ゃった。 世の中、あなたたちのように裕福でありながら、足ることを知らず、利益を食り、不足を訴える者は、たとえば、大人がこの湯船の中に立っ たまま屈まないで、湯を肩にかけながら「なんだ、この湯船が浅いのは。膝にも達しないぞ」と罵るようなものだ。もしその ような要求に従えば、深すぎて子供のような小さな者 は入浴できなくなってしまう これは、湯船が浅いからではなく、自分が屈んで入ら ないという過ちが原因である。この過ちを悟って屈んで入れば、湯はたちまち肩に達し て、自然に十分になる。不平不満を、 他に求める必要はない。世間の裕福な者がいう不平不 満は、これと同じなのである。 そもそも自分の分限を守らなければ、どれだけ財産が あったとしても不足だというだろ う。いったん、過分の間違いを悟って自分の分度を守 れば、その余分が自然に生じ、その 余分で人を救ったとしても、まだ余りが残ることだろう。

湯船において、大人は屈んで入って湯が肩まで達し、 子供は立って入って湯が肩まで驚
することを、 中庸"という。収入が百石の者は、五十 石に屈んで、残りの五十石の余谷 は譲り、千石の者は、五百石に屈んで、残りの五百石 の余裕は譲る。これを「中庸,とい
うのだ。 もし、村の中で、一人この道を踏み行う者がいれば、 人々はみな自分の分度を超えてい る間違いを悟るだろう。そして、これを皆が悟り、分 度を守り、その余裕を譲れば、必ず 村は豊かに栄え、穏やかに生活できるだろう。古語 (『大学」伝九章)に「一家に仁道が行 われれば、国全体もこれにならって感奮興起して仁道 が行われる」といっている。よく考
えなさい。 仁は人道における最高の徳だが、儒者の説はとても難 しくて役に立たない。卑近な例で いえば、この湯船の湯のようなものだ。 この湯を手で自分のほうに掻き寄せれば、湯は自分の ほうに来るように見えるけれども 結局はみな向こうのほうへ流れ帰ってしまう。これを 向こうのほうへ手で押すときは、湯 は向こうのほうへ行くように見えるけれども、また自 分のほうへ流れ帰ってくるのである。 少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。これが天 理だ。仁といい、義というのは、 湯を向こうへ押すときの名である。自分のほうへ掻き 寄せるときは不仁となり、不義となる。慎まなくてはならない。古語(「論語」顔淵第十 二)に「私心に打ち克って礼の精神に 立ちかえるなら、天下の人々がその人徳になびくよう になる。仁を行うのは、自分しだい だ。どうして人を頼みにできようか」とある。 この古語にいう「私心」とは、手が自分のほうへ向く ときの名である。そして「礼」と は、自分の手を向こうのほうに向けるときの名であ る。自分のほうに手を向けておいて、 仁や義を人に説くことはみな無益なことである。そこ をよく考えられよ。 人体の組み立てを見なさい。人の手は自分のほうに向 いて、自分のために便利にできて いるけれども、また向こうのほうにも向いていて、向 こうへ押すこともできる。 これが、人 道のもとだ。鳥や獣の手は、人間と違って自分のほう だけに向いて、 自分に便利なだけだ だから、人たる者には、「他の人たちのために押す 道」がある。なのに、自分のほうに 手を向けて、自分のために取ることだけを勤めて、向 こうのほうに手を向けて他の人たち のために押すことを忘れている者は、「人にして人に あらず」といえよう。すなわち、鳥 や獣と変わらない。なんとも、恥ずかしいことではな いか。 これは、ただ恥ずかしいだけではない。これは天理に 背いているから、ついには滅亡す る。だから、私は常に、「奪うに益なく、譲るに益あ り。譲るに益あり、奪うに益なし。これはすなわち天理である。」と教えているのだ。このことをよくよく玩味するがよい。