続、飢饉を救う

二宮金次郎は、また、こういいました。 天保七年(一八三六年)、烏山藩主の依頼によって、同領内に前の方法を大略次のように実施した。 各村に諭して、きわめて困窮している者のうち、力仕事につける者とつけない者の二つ に分け、力仕事につけない老人·幼児·病人など千人余りを烏山城下の天性寺の禅堂·講 堂·物置の他、新たに小屋二十棟を建設して、一人白米一合ずつ、前に述べた方法で、同 年十二月一日より、翌年五月五日まで救済した。 その間、飢えに疲れた人たちの気分を紛らせるため に、藩士の武術稽古を行わせて、それを自由に観覧させ、ときどき鉄砲の空砲を鳴らし て、つまった気分を晴らせた。その中 で、病気の者は自分の家に帰し、または別に病室を設けて療養させ、五月五日の解散のときには一人につき白米三升、銭五百文ずつ渡して帰宅させた。
また、力仕事につける者には、鍬を一枚ずつ渡して、 荒地一反歩についての土起こし料、金三分二朱、田植え料二分二朱、合わせて一両半、他に肥料代一分を渡し、一村に限って働き者で事務のできる者を選び、投票で上位の者に、その世話役に申しつけ、荒田を起こし返して、植えつけさせた。
この起こし返した田は、一春の間に三十八町九反歩植えつけることができた。これは実に天から降ってきたように、地から湧いたように、数十日のうちに荒地が水田に変わり、秋になってその収穫はただちに貧民に補給するための食糧になった。
その他、草鮭や縄などをつくったことも、莫大な利益をもたらし、飢民は一人もなく、村人たちは安穏に生活し、殿様の仁政を感謝して農事に一心に努力した。喜ばしいことではないか。