偉人二宮金次郎の幼少期
みなさん二宮金次郎を、ご存知でしょうか?
学校の銅像になったりしてるので、なまえは聞いたことある方は結構いると思います。
しかし、実際何をやった人なのか、具体的に知っている人は少ないと思います。
薪を背負いながら、本を読んだ人くらいの認識だと思います。
しかし、二宮金次郎のすごいところはそこではないのです。
金次郎が唱えた
報徳仕法と
至誠・勤労・分度・推譲
というものがすごいのです。
それについてはおいおい説明しますが、とりあえず、これから、二宮金次郎が一体どんな人物で何をしたのかを、じっくり書きたいと思います。
二宮金次郎について
二宮金次郎は江戸時代の1787年に今の神奈川県小田原市栢山で農民の子として生まれました。
金次郎が5歳のときに、最初の困難に遭遇します。
台風の影響で、付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまい、その影響で父の田畑は砂礫と化し、家も流失してしまいました。
それがたたったのか、金次郎のお父さんは病気になり、金次郎が14歳のときになくなってしまいます。
金次郎は母と、弟2人の一家4人を支えるために必死で働きます。
そんな中、金次郎が16歳のとき、貧困の中で母が亡くなってしまいます。まだ幼い2人の弟は母の実家に預け、金治郎は伯父さんである、萬兵衛の家に身を寄せることとなります。しかしこの年にまた酒匂川が氾濫し、金治郎の土地は水害に襲われてすべて流出してしまいます。
金治郎は伯父の家で、農業に励み、身を粉にして働くのですが、伯父の萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを「燈油の無駄使い」として嫌い、叱責します。
金次郎は、そこで、自分で油代を稼ごうと考えました。
荒地に菜種を植え、たった一握りの菜種から7〜8升の油をてにします。
また、道に捨てられている苗を、荒地で丹精こめて育てて、秋には一俵の籾を手に入れます。
この経験は自然の恵みと人の力の素晴らしさを知 ると共に、小さな努力の積み重ねが大切だと言うことに気が付きます。
これを金次郎は積小為大と呼び、金次郎の考えの根幹としました。
この積小為大は、塵も積もれば山と似てますが、私へこみんは少し違うと思ってます。
塵は集めればいつかは山になるかもしれませんが、菜種や苗は勝手に育たないのです。
つまり、手を加えることで、付加価値が付与されてるのです。
インプット→ワーク→アウトプット
このワークが非常に大事な点だとおもいます。
今回は、この辺にしておきます。
次回をお楽しみに!