到達点は一つ

二宮金次郎はいいました。 世の中にある「誠の大道」というのは、ただ一筋ある だけではなかろうか。神道儒教、 仏教というのは、いずれもみな同じ大道に入る入り口 の名前だといえる。 あるいは天台宗真言宗法華宗禅宗というのも、同じく入り口の小 道の名前だといえるだろう。 そもそも、何々教、何々宗と区別するのは、水に藍を 溶いて染めるのを紺屋といい、紫 を溶いて染めるのを紫屋というようなものである。そのもとは、一つの清水なのだ。 紺屋において「わが藍の働きたるや広大無辺であるゆえ、この瓶に入れれば紺に染まら ないものはない」と誇り、紫屋においては「わが紫の きわめてすぐれていること、天下の 反物を染める顔料として紫に及ぶものはない」というようなものである。染められた「紺屋宗」の人は、わが宗の藍より他にありがたいものは ないと思うかもしれない。「紫屋宗」の者は、わが宗の紫ほど尊いものはないというかもしれない。しかし、これはみな、三界城 (徹界·色界·無色界の迷いを、退出することの難しい 城郭にたとえていう語)内を、降躍して抜け出すことができない者たちのことをいっているのだ。
紫や藍に染まった水も大地にこぼせば、またもとのように色が抜けて、ゆくゆくは清水に還るだろう。それと同じで、世の教えには神道·儒教·仏教をはじめ、心学·性学など枚挙に暇がないが、みな大道の入り口の名前だと考えればいいのである。この入り口がいくつあっても、到達するところは必ず一つの誠の道なのである。これを別々に道があると思うのは迷いに他ならない。別々だと教えるのは、邪説だともいっていい。
たとえば、富士登山のときに案内人によって吉田、須走、須山などいくつか登り道があるが、到達点は一つである。こうでなければ、真の大道とはいえない。けれども誠の道に導くといって、誠の道に至らず、無益な枝道に引き入れるのを邪教という。誠の道に入ろうとして、邪説に欺かれ、枝道に入り、また自ら迷って邪な路に陥ってしまうことも世の中に少なくない。くれぐれも慎まなければならない。