評議が決してから弁当を

駿河国(静岡県)駿東郡は、富士山の麓で、雪水がかかる土地なので、天保七年の凶作 は特にひどかった。そこで、領主の小田原藩主(大久保 忠真)は、江戸において先生に、 米や金の出し方は、家老の大久保に申しつけてある。 小田原に行って、それを受け取るように」と救済を命じられた。 先生は早速出発して、夜行で小田原に到着し、米と金 を請求したが、家老·年寄ら役 人の評議がなかなか決まらず、金次郎は、長いこと待たさ れた。そして昼になり、役人たちが みな弁当を食べて、その後で評議しようということに なった。
そこで、先生はおっしゃった。 「飢えで苦しむ人たちは今、死に直面しています。こ れを救うべく、行われているこの評 議は、まだ終わっておりません。それなのに、弁当を優先して、緊急の評議を後にすると 議は、まだ終わっておりません。そういうのは、公議を後にして私事を優先することに等し いことです。 今日評議していただいていることは、平常のこととは 違い、数万の人々の命にかかわるな案件です。まずこの議を決めてから、弁当はお食べになるべきです。この議が決まらなければ、たとえ夜になってもお食べになってはなりません。謹んでご決議をお願いいたします」 このように、金次郎はいったので、「それはもっともなことだ」と一同の者たちは、 弁当を食べることをやめて評議に入り、速やかに御用 米(臨時の用に供するために貯蔵しておく米)を供給せよ、ということが決まり、その旨が倉奉行に達せられた。ところが、倉奉行が開倉する定日は月に六回となっていて、定日の他にはみだりに開倉する例はない、といって倉を開けようとしない。そこでまた、大いに議論になったが、倉奉行が先ほどの家老が列席する評議の際に弁当云々の 話があったことを聞き、速やかに蔵を開けたという。

施しと救済

二宮金次郎はまた、こういいました。
前に述べた方法は、ただ救済の良法だけでなく、農業奨励の良法でもある。これを施すときは、一時の困窮を救うだけでなく、怠惰な者をも自然に働き者に変え、知らないうちに仕事を習い覚えさせる。
そして、それが習慣となって、弱者も強者になり、愚者も仕事に慣れ、幼い子供も縄をなうことや草鮭をつくることなど、その他いろいろな稼ぎを覚えて、することがなく遊びほうける者もいなくなる。人々は、無為徒食を恥じて、それぞれ心を打ち込んで仕事に励むようになるのである。
恵んでも減らさないというやり方は、窮乏を救う良法である。しかし、前の方法は、それよりすぐれた良法だといえよう。
飢麓や凶年でなくても、救済に志のある者は、深く注意しなければならない。世間では、救済に志のある者は、よく考えもせずに金品を施し与えることがあるが、それはよくない。

なぜなら、それによって人々を怠惰に導くからだ。これは、恵んで減らしてしまうということだ。恵んでも減らさないように注意して施し、人々が心を奮い立たせ、努力して困難に立ち向かえるようにすることが必要である。

湯船の湯

嘉永五年(一八五二年)正月に、ある人が先生と一緒に入浴したことがあった。そのとき、先生が湯船の縁に座って、その人を諭しておっし ゃった。 世の中、あなたたちのように裕福でありながら、足ることを知らず、利益を食り、不足を訴える者は、たとえば、大人がこの湯船の中に立っ たまま屈まないで、湯を肩にかけながら「なんだ、この湯船が浅いのは。膝にも達しないぞ」と罵るようなものだ。もしその ような要求に従えば、深すぎて子供のような小さな者 は入浴できなくなってしまう これは、湯船が浅いからではなく、自分が屈んで入ら ないという過ちが原因である。この過ちを悟って屈んで入れば、湯はたちまち肩に達し て、自然に十分になる。不平不満を、 他に求める必要はない。世間の裕福な者がいう不平不 満は、これと同じなのである。 そもそも自分の分限を守らなければ、どれだけ財産が あったとしても不足だというだろ う。いったん、過分の間違いを悟って自分の分度を守 れば、その余分が自然に生じ、その 余分で人を救ったとしても、まだ余りが残ることだろう。

湯船において、大人は屈んで入って湯が肩まで達し、 子供は立って入って湯が肩まで驚
することを、 中庸"という。収入が百石の者は、五十 石に屈んで、残りの五十石の余谷 は譲り、千石の者は、五百石に屈んで、残りの五百石 の余裕は譲る。これを「中庸,とい
うのだ。 もし、村の中で、一人この道を踏み行う者がいれば、 人々はみな自分の分度を超えてい る間違いを悟るだろう。そして、これを皆が悟り、分 度を守り、その余裕を譲れば、必ず 村は豊かに栄え、穏やかに生活できるだろう。古語 (『大学」伝九章)に「一家に仁道が行 われれば、国全体もこれにならって感奮興起して仁道 が行われる」といっている。よく考
えなさい。 仁は人道における最高の徳だが、儒者の説はとても難 しくて役に立たない。卑近な例で いえば、この湯船の湯のようなものだ。 この湯を手で自分のほうに掻き寄せれば、湯は自分の ほうに来るように見えるけれども 結局はみな向こうのほうへ流れ帰ってしまう。これを 向こうのほうへ手で押すときは、湯 は向こうのほうへ行くように見えるけれども、また自 分のほうへ流れ帰ってくるのである。 少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。これが天 理だ。仁といい、義というのは、 湯を向こうへ押すときの名である。自分のほうへ掻き 寄せるときは不仁となり、不義となる。慎まなくてはならない。古語(「論語」顔淵第十 二)に「私心に打ち克って礼の精神に 立ちかえるなら、天下の人々がその人徳になびくよう になる。仁を行うのは、自分しだい だ。どうして人を頼みにできようか」とある。 この古語にいう「私心」とは、手が自分のほうへ向く ときの名である。そして「礼」と は、自分の手を向こうのほうに向けるときの名であ る。自分のほうに手を向けておいて、 仁や義を人に説くことはみな無益なことである。そこ をよく考えられよ。 人体の組み立てを見なさい。人の手は自分のほうに向 いて、自分のために便利にできて いるけれども、また向こうのほうにも向いていて、向 こうへ押すこともできる。 これが、人 道のもとだ。鳥や獣の手は、人間と違って自分のほう だけに向いて、 自分に便利なだけだ だから、人たる者には、「他の人たちのために押す 道」がある。なのに、自分のほうに 手を向けて、自分のために取ることだけを勤めて、向 こうのほうに手を向けて他の人たち のために押すことを忘れている者は、「人にして人に あらず」といえよう。すなわち、鳥 や獣と変わらない。なんとも、恥ずかしいことではな いか。 これは、ただ恥ずかしいだけではない。これは天理に 背いているから、ついには滅亡す る。だから、私は常に、「奪うに益なく、譲るに益あ り。譲るに益あり、奪うに益なし。これはすなわち天理である。」と教えているのだ。このことをよくよく玩味するがよい。

 

続、飢饉を救う

二宮金次郎は、また、こういいました。 天保七年(一八三六年)、烏山藩主の依頼によって、同領内に前の方法を大略次のように実施した。 各村に諭して、きわめて困窮している者のうち、力仕事につける者とつけない者の二つ に分け、力仕事につけない老人·幼児·病人など千人余りを烏山城下の天性寺の禅堂·講 堂·物置の他、新たに小屋二十棟を建設して、一人白米一合ずつ、前に述べた方法で、同 年十二月一日より、翌年五月五日まで救済した。 その間、飢えに疲れた人たちの気分を紛らせるため に、藩士の武術稽古を行わせて、それを自由に観覧させ、ときどき鉄砲の空砲を鳴らし て、つまった気分を晴らせた。その中 で、病気の者は自分の家に帰し、または別に病室を設けて療養させ、五月五日の解散のときには一人につき白米三升、銭五百文ずつ渡して帰宅させた。
また、力仕事につける者には、鍬を一枚ずつ渡して、 荒地一反歩についての土起こし料、金三分二朱、田植え料二分二朱、合わせて一両半、他に肥料代一分を渡し、一村に限って働き者で事務のできる者を選び、投票で上位の者に、その世話役に申しつけ、荒田を起こし返して、植えつけさせた。
この起こし返した田は、一春の間に三十八町九反歩植えつけることができた。これは実に天から降ってきたように、地から湧いたように、数十日のうちに荒地が水田に変わり、秋になってその収穫はただちに貧民に補給するための食糧になった。
その他、草鮭や縄などをつくったことも、莫大な利益をもたらし、飢民は一人もなく、村人たちは安穏に生活し、殿様の仁政を感謝して農事に一心に努力した。喜ばしいことではないか。

 

飢饉を救う

二宮金次郎はいいました。

私が烏山藩やその他の地で実施した飢離の救済方法だが、まず村々の人たちに諭して、 次のようなことを行った。 飢えと渇きで苦しむ者の中で、老人·幼児·病人など力 仕事が難しい者、またその日の 働きが十分にできない婦女子を残らず調べさせ、寺院 か大きな家を借り受はけて、その者たちをそこに集めて男女に分ける。そして、三十人から 四十人ずつを一組として、一カ所に世話人を一、二名置き、一人につき、一日に白米一合 ずつと定め、四十人ならば、一度に 一升の白米に水を多く入れて、そのお粥に塩を入れ て、これを四十のお椀に平等に盛って、 一椀ずつ与える。また一度は同様だが、菜っ葉を少し 混ぜ、味噌を入れて、薄い雑炊にし て、前と同じように盛って、一椀ずつ代わる代わる朝 から夕方まで、一日四度ずつと定め て与えるのである。 一度に二勾五才の米をお粥にしたものだ。 これを与えるときには、親切に諭してこういった。

みなさんの飢えと乾きは、深くお察しします。ご同情します。 一宛のお粥は、一日四度が限度なので、空腹は実に堪 えがたいでしょう。しかし、たくさんの飢えた人たちに十分に与えられる米や麦は、この天下にありません。このわずかたなお粥は飢えをしのぐには十分でなく、実に忍びがたいこ とでしょうが、現在国中で売ってくれる米穀はなく、金銀があっても米が買えない世の中です。そんな中、これはお殿様のご仁恵によって、倉が開かれ、お救いくださったところ の米のお粥です。一椀でも貴重なも のです。厚くありがたく心得て、決して不足に思っ はいけませんよ。 また世間には、草の根や木の皮などを食べさせること もありますが、これはひじょうに よくありません。それを食べたことで病気になり、救 うことができずに死んだ者がたくさ んいます。とても危険で、恐ろしいことです。世話人 に隠れて、決して草の根や木の皮な どを少しでも食べてはいけません。この一椀ずつのお 粥は、一日四度ずつ時間を決めて、 必ず与えます。ですから、たとえ身体が痩せても、決して餓死する心配はありません。ま た、白米のお粥ですから、病気にかかる恐れもありま せん。 新麦の熟するまでの間のことですから、どうかよく空 腹をこらえて、起きているときも 寝ているときも静かに動いて、できるだけ腹が減らな いようにして、命さえ続けばそれだ けでありがたいと覚悟して、新麦の豊作を天地に祈っ て、寝たければ寝ていてよろしい。

起きたければ、起きてよろしい。日々、何もしなくてもよろしい。ただ腹が減らないように身体を動かして、空腹を我慢しなさい。そして、それがあなたたちの仕事だと思って、暮らしなさい。
新麦さえ実れば、十分に与えましょう。それまでの間は、死にさえしなければありがたいものだとよくよく覚悟して、くれぐれも草木の皮や葉を食べないように。草木の皮や葉は、毒がないものであっても、お腹がそれに慣れていないから、毎日たくさん食べると毒がないものも自然毒となり、それが原因で病気にな
り、大切な命を失ってしまうことがあ
ります。絶対に食べてはいけません。

こんなふうに、親身になって教え諭し、空腹に慣れさせて、病気にならせないことこそが救済の上策である。必ずこの方法によって一日一合のお粥を与えることだ。草木の皮や葉を食べよ、とはいってはいけないし、また食べさせてはいけない。これが、老人や婦女子などの弱者救済法の概略である。
また、身体が健康で力のある男女については、別に方法を立てて、よくよく彼らに説き諭して、こういった。
「ふだん五厘の縄一房を七厘で、一銭の草鮭を一銭五厘で、三十銭の木綿布を四十銭で買い上げ、平日十五銭の日雇い賃金を二十五銭で支払うから、村の者一同奮発して、困難でも、がんばって銭を取って生活しなさい。草戦や木綿布など はいくらでも買い取り、仕事も協議工夫していくらでも人夫として雇うから、老若男女を問わず身体が強くて 健康な者は、昼は日雇い賃を取って、夜は縄をなって 草軽をつくりなさい。

さて、仕事というものは、道や橋を修理し、用水や悪水(水はけの悪い水田のたまり水) の堀をさらい、ため池を掘り、堤防を修理し、肥沃な 土地を掘り出して、それを下田·下 畑に入れ、曲がった畔をまっすぐに直し、狭い田を合 わせて大きくするなど、それぞれの 土地についてよく工夫を施せば、いくらでもできるも のだ これは、自分が十円の損をして、人に五十円、六十円 のお金を儲けさせ、自分が百円の損をして、人に四百円、五百円の利益を得させ、かつ 村に末永い幸福を残し、さらに美名をも遺す道である。これは、ただ恵んで乏しくならな いばかりか、少なく恵んで大きな利 益を得る良法なのである。 これ以外に、飢餓による困窮を救うよい方法はない。 これが、私が実地にやった救済法の概略である。

到達点は一つ

二宮金次郎はいいました。 世の中にある「誠の大道」というのは、ただ一筋ある だけではなかろうか。神道儒教、 仏教というのは、いずれもみな同じ大道に入る入り口 の名前だといえる。 あるいは天台宗真言宗法華宗禅宗というのも、同じく入り口の小 道の名前だといえるだろう。 そもそも、何々教、何々宗と区別するのは、水に藍を 溶いて染めるのを紺屋といい、紫 を溶いて染めるのを紫屋というようなものである。そのもとは、一つの清水なのだ。 紺屋において「わが藍の働きたるや広大無辺であるゆえ、この瓶に入れれば紺に染まら ないものはない」と誇り、紫屋においては「わが紫の きわめてすぐれていること、天下の 反物を染める顔料として紫に及ぶものはない」というようなものである。染められた「紺屋宗」の人は、わが宗の藍より他にありがたいものは ないと思うかもしれない。「紫屋宗」の者は、わが宗の紫ほど尊いものはないというかもしれない。しかし、これはみな、三界城 (徹界·色界·無色界の迷いを、退出することの難しい 城郭にたとえていう語)内を、降躍して抜け出すことができない者たちのことをいっているのだ。
紫や藍に染まった水も大地にこぼせば、またもとのように色が抜けて、ゆくゆくは清水に還るだろう。それと同じで、世の教えには神道·儒教·仏教をはじめ、心学·性学など枚挙に暇がないが、みな大道の入り口の名前だと考えればいいのである。この入り口がいくつあっても、到達するところは必ず一つの誠の道なのである。これを別々に道があると思うのは迷いに他ならない。別々だと教えるのは、邪説だともいっていい。
たとえば、富士登山のときに案内人によって吉田、須走、須山などいくつか登り道があるが、到達点は一つである。こうでなければ、真の大道とはいえない。けれども誠の道に導くといって、誠の道に至らず、無益な枝道に引き入れるのを邪教という。誠の道に入ろうとして、邪説に欺かれ、枝道に入り、また自ら迷って邪な路に陥ってしまうことも世の中に少なくない。くれぐれも慎まなければならない。

己に克つ

二宮金次郎はいいました。 天理と人道との違いを、よく弁別できる人はあまりい ない。身体があれば、欲がある。 これは、天の理に他ならない。田畑に雑草が生えるの と同じだ。防は崩れ、堀は埋まり 橋は老朽化する。これも天の理だ しかし、人道は、私欲を抑えるのを道とし、田畑の雑 草を取り除くことを道とし、堤防は築き、堀は泥をさらい、橋は架け替えることをもって道とする。 このように天理と人道とは、まったく別ものである。 だから、天理はいつまでも変化がないが、人道は一日怠れば、たちまち崩れてしまう。 それゆえ、人道は勤めることを尊び自然に任せることを尊ばないのだ。人道において励むべきことは、「己に克つ」教えであ る。 己の中には、私欲がある。私欲は田畑にたとえれば、 雑草だ。「克つ」とは、この田畑 に生える雑草を取り除くことをいう。したがって己に克つというのは、自分の心の田畑に生える草を取り除いて、自分の心の米や麦を繁茂 させることに励むことなのである。これを人の道というのだ。「論語」に 「己に克ちて札に復る」とあるのは、このことであろう。