中江藤樹

今日は内村鑑三の代表的日本人で取り上げられた一人、中江藤樹について書いていきたいと思います。

その前に中江藤樹の根幹であった陽明学について簡単に触れておきます。

陽明学

15世紀ころの明の時代に活躍した儒学者である王陽明によって確立した儒学の一派。

陽明学の特徴は形骸化された朱子学を批判し、より実践的な倫理をといているという点です。朱子学は12世紀末ころに儒学者である朱嘉によって確立された学問体系ですが、王陽明のころになると道徳主義的な面はすでに失われていました。

朱子学の考え方は、世の中のすべてのものや事象は、理で成り立っていて、 読書など学問をすることで理解が深まる。自分が素晴らしい人間になり、人生を豊かにしてよい社会を作るためには、あらゆることをよく研究することが大事だというものです。

王陽明自身も朱子学を学び、理を極めようとしますが、挫折してしまいました。この経験から王陽明朱子学そのものに疑問を募らせ、学門をすることで理を求めるのではなく、 日ごろの生活や日々の仕事を通じて、心の中に理を求めようとしました。

王陽明が記した書物はほとんどなく、弟子たちのよってまとめられたものが、現在まで伝えられています。陽明学の思想をあらわす2つのカギ「致良知」「知行合一」 について簡単に説明します。

致良知

良知とは身分や学問の有無にかかわらず、すべての人が生まれ持っている道徳知や生命力

の根源のことで、致良知とはこの良知を全面的に発揮することを意味し、良知に従う限りその行動は善いものとみなされることを言います。

知行合一

知は知ること、行は実践することです。 朱子学では、知が先にあり、 行が後になり 「知先行後」を重視していました。つまり実践に先立って学問を行うことが重要だとしていました。

しかし王陽明は「知は行の始めにして、行は知るなり」とのベ「知行合一」を唱えました。

本題

藤樹は1608年に近江国高島郡小川村の農家中江吉次の長男として生まれました。 9歳の時に祖父中江吉長の養子になりますが、吉長が米子藩加藤家の150石の藩士であったため、親と別れて米子に赴きます。 1617年に加藤家は伊予大洲藩に転封となったため、祖父母とともに移住しました。1622年に祖父吉長が死去ししたため、15歳で家督を継ぎます。 1624年に京都から来た僧から論語を学んだことをきっかけに、四書大全を購入

して熟読しました。

やがて朱子学とであった藤樹は、 行動の細則を守ることで、武士らしくあろうと務め、 学問にもはげみました。しかし生真面目であったせいか、 武士らしくあろうとするあまり、自分に対しても他人に対しても厳しく頑頭なになり、やがて精神的に追いつめられていきます。

25歳の時、近江に一人で暮らす母を案じて迎えに行きますが、母は大洲に行くことを断りました。かつて藤樹が子供のころ、母に慕い寄った息子に対し、 いったん家を出たものが軽々しく帰るものではないと叱ったほどしつけに厳しい母でした。情然と四国の船に乗った藤樹は船内でぜんそくの発作を起こし倒れます。 藤樹のぜんそくは神経性のものであったとされており、彼の心身は武士の生活を拒んでいました。

その後藤樹は藩に対し何度も退職を願いますが、認められず、27歳のときついに脱藩して、京都にしばらく潜伏した後、故郷の小川村に戻ります。 ようやく心身が落ちつくと、刀を売り払い、そのお金で金貸しをはじめ、酒屋を営みました。そして、私塾も開きました。同時

に医学も学び、村の学問の先生兼医者という存在になりました。

塾では儒学を教えましたが、形式主義的な朱子学ではなく、人間には本来良知がそなわると説く陽明学に重きを置きました。藤樹は、頭でっかちの学問を教えるために塾を開いたのではありませんでした。人の道を伝えるために塾を開いたのです。

藤樹は孝というものが非常に大切だと考えていました。 孝というものは、相手に対する思いやりの気持ちです。 どのような人に対しても敬意をはらうことが重要だと考えていました。

この時私塾に入門したのが備前池田家を離れていた熊沢蕃山という人物でした。熊沢はその後池田家に戻り、 藩主池田光政に重用されることになります。

藤樹は儒学だけではなく、望むものには医学も教えました。その中に大野了佐という人物がいます。大野はやや知的障害がありましたが、医者になることを望んでおり、藤樹も入門を許し、漢文の医学書を読ませますが、冒頭の数フレーズを覚えるのに半日かかり、しかも食事を済ませるとすべて忘れてしまうというものでした。藤樹も教えるのに情魂尽き果てる状態になりますが、けなげに毎日通ってくる大野を見捨てることはできず、テキストを作り直し、根気よく教え続け、一人前の医者として独立させました。このような行いから、藤樹は近江聖人と呼ばれるようになりました。藤樹の教えは身分の上下を超えた平等の思想に

特徴があり、武士だけではなく、商エにまで広く浸透しました。藤樹は生涯を通して師につくことはなく、ひたすら独学で人間の道を探求し続けました。

正直馬子

藤樹の有名なエピソードとして有名なものがあります。

近江の河原市宿にいた馬子の又左衛門は、京都に急ぐ飛脚を乗せて隣の宿場まで運びました。河原市宿に戻って馬の鞍を外すと、 財布のような袋があり、200両もの大金が入っていました。又左衛門は「これは先ほどの飛脚が忘れていったに違いない。今頃困っているで

あろう」と夕暮れの道を隣の宿場町に再び向かいます。 又左衛門が飛脚の宿を探し当てると、案の定飛脚は青い顔をして荷物の中を探し回っていました。又左衛門が財布を渡し、中身が無事であることを確認すると飛脚は泣いて喜び、「これは加賀藩前田家の公金で、 紛失した

となれば、私の命だけでは済まないところでした」 と礼をいい、 命の恩人である又左衛門に謝礼を渡そうとしますが、又左衛門は受け取りません。 飛脚はそれでは収まらぬと押し問答の末、結局歩いてきた駄賃として 200 問だけ受け取り、 それでお酒を買ってきて宿の人たちに酒を振る舞い楽しそうに飲み始めました。その振る舞いに感動した飛脚が、「あなたはいったいどのような方か」と尋ねると、又左衛門は「私は名もないただの馬子です。 ただ近くの小川村に中江藤樹先生という方がおられて、毎晩のようにいい話をされるので、私も時々聞きに行くのです。先生は親孝行をすること、人のものを盗んだり、傷つけてはいけないこと、困っている人を助けることを話され、私はそれを思い出したにすぎません」と答え、自分の宿場に帰っていきました。

藤樹がのこした言葉に「学問は心の汚れを清め、身の行いをよくするを以て本業とす。」という言葉があります。 学問は博学を自慢するものではなく、自分の名前を売るためにするものではない。本来の学問は心の中の磯れを清めること、日々の行いを正しくすることにある。

高度な知識を手に入れることが学問だと信じる人たちからすれば、奇異に思うかもしれないが、そのような知識の詰め込みのために、かえって高慢の心に染まっている人が多い。というものです。

いかがだってしょうか。

コロナ禍の中で、自分だけよければいいという行動に出る人が散見される昨今で、やはり道徳心というものは非常に重要だと私は考えています。 人のためを思い行動することは人間としてもっとも大切にしなくてはならないことだと思います。 そうでなければ獣や鳥と何

ら変わりがないと思います。人のことを自分のことだと思い行動すること。少しでもそういう気持ちがあれば世の中は少し生きやすくなるのだと感じました。

 

 

本多静六について

f:id:hekominchan:20210916173849j:image本多静六は日本の日本の林学者、造園家、株式投資家。日本の「公園の父」といわれる。苦学して東大教授になり、「月給4分の1天引き貯金」を元手に投資で巨万の富を築き、大学定年退官と同時に全財産を寄付した人物です。

静六は1866年に現在の埼玉県久喜市の折原家に生まれました。

折原家は代々村役人を務める裕福な家庭でしたが、静六が9歳の時に父が急になくなり、貧しい生活を余儀なくされました。それでも静六は家の仕事を手伝いながら勉強をつづけました。14歳のころ祖父の許しを得て、東京の島村家の書生として住み込むことになりました。

17歳の春3年にわたる書生生活を終えた静六は、 新しくできた東京山林学校に入学しました。しかし、一学期の数学の試験で落第してしまいました。貧しい生活の中から学費を出してくれた家族に申し訳ないと思い、寝れない夜を過ごしました。 翌日島村先生に落第の成績表を見てもらうと、「失敗は成功のもと、 君が一心で立ち向かったなら問題はあるまい。落第したことを私に話しただけで、 君の役目はもう済んだ。」 と話し、成績表を破り捨てました。これを見た静六の心は晴れ、 新たな努力を決意し、 勉強に励みました。 その結果成績

はあがり、今度は最優等生になることができ、 学校から銀時計をもらいました。静六は努力すれば必ず成功できることを学んだのです。

22歳の時静六に婿養子の話が舞い込みました。 相手は元武士で元彰義隊の本田敏三郎の娘で、詮子という人でした。 詮子は当時日本で4人しかいない女医の1人という才女でした。

しかし養子に気が進まない静六は、ドイツに留学させてくれるなら、 という条件を出します。

この時の留学費用は莫大な金額がかかりましたが、本田家は静六を気に入り婿入りが決まり、苗字を折原から本多にかえました。 25歳にしてミュンヘン大学で博士号を取得した静六は帰国後すぐに今の東京大学農学部助教授となりましました。この時自分の一生の生き方、すなわち「人生設計」を立てました。 65歳までは一生懸命働動くこと、85歳までは社会に奉仕すること、 そして120歳までは老後を楽しむことと決めました。 また併せて、毎日原稿用紙1枚の原稿を書くことと、給料の四分の一天引き貯金を決めました。支給された給料の四分の一は強制的に貯蓄するというものです。

静六は「給料40円もらったら、30円しかもらわなかったと思って10円天引きすればよい。米が4俵取れたら3俵しか取れなかったとおもって1俵分を別にすればよい。 米は今年より来年が殖えるというわけにはいかないが、給料は順当にいけば必ず増える。 辛抱さえすれば段々天引き残余が増していくのである」と語っています。

静六は東京大学の授業だけではなく、演習林の管理や、 大隈重信から早稲田大学の講師を依頼されたりと多忙な日々を送ります。

明治33年に学位が改定されると、日本で初めて林学博士に任命されます。 また、 教務の余暇を利用して、 山林の活用や、 林学宣伝の啓蒙活動に務めました。

そのほか日比谷公園の設計、 明治神宮の造林、 国立公園の創設に携わるなど大きな実績を残しました。

そして1927年の定年退職を機に、家族に最小限度の財産を残し、 学校、育英、 公益の関係諸財団へ匿名で寄付をおこないました。


本多静六の名言

世の中には濡れ手で栗を掴むようなうまいことがそうざらにあるわけではない。

手っ取り早く成功しようとする人は、手っ取り早く失敗する人である。

真の成功には速成もなければ、裏道もない。あせらず怠らず、長い道を辛抱強く進んでいくよりほかはない。


愚鈍な生まれつきでも、努力次第で何事も成功する。

私が平凡愚劣の生まれつきをもってしかもなおかつ割合に幸福感謝の長い人生を享楽しえたのも、ひとえにこれ、早くから自らの「人生設計」をたてて、実行に努力してきたおかげである。


満40歳までの15年間はバカと笑われようが、ケチとののしられようが、一途に奮闘努力、検約蓄財、もって一身一家の独立安定の基礎を築くこと。

人の長所を用いれば、世に捨てるべき人物なく、人の短所を責め完壁を求めれば、天下に用いるべき人物はいなくなる。


もし、やむを得ず他人の説や他人お仕事を批評する場合には必ずその改良案を添えることである。

単に人の説を攻撃し、破壊するだけでは、世のためにならないばかりではく、かえって恨みを買って敵を作ることにより、成功するうえで大損である。

 

江川太郎左衛門英龍

みなさん、江川太郎左衛門英龍をご存じでしょうか

江戸幕府後期の伊豆国韮山で、代官の家に生まれました。民政の充実を図るだけでなく、西洋砲術を学び、黒船前後の幕府海防政策に携わりました。そんな韮山代官江川太郎左衛門英龍についてまとめていこうと思います。

江川家は鎌倉幕府以前から、伊豆国韮山の地を支配した一族で、江戸時代に入ると相模や伊豆の天領の代官に任じられ、代々江川太郎左衛門を名乗り、世襲してきました。

韮山代官という職は、幕府に代わり、土地の年貢の取り立ての行政や軍の編成など一括して委任される重要な職でした。

英龍は 35 歳の時に江川家の家督を継ぎますが、それまでの間は江戸で学問の習得や、剣術の修行をしていました。この時生涯の親友となる斎藤弥九郎と出会いました。斎藤弥九郎は英龍から資金の援助を受けて練兵館という剣術同情を創立しました。この練兵館士学館玄武館と並ぶ江戸三大道場と呼ばれるようになるほど繋栄しました。練兵館からは桂小五郎高杉晋作伊藤博文などの維新志士を輩出しました。

韮山代官になった英龍はまず農民の生活を安定させることが重要だと考えました。そこで当時評判になっていた二宮金次郎を招き、豊田正作を交え仕法について教えを請いました。

その時のことについて、二宮金次郎はこう言っています。

二宮尊徳翁は次のように話された。

ある時、江川太郎左衛門氏が、

「桜町に入って数年で、年来の悪習を一掃し、人々に勤勉な気持ちを持たせ、広大な荒廃地を開いたと聞き及んでいる。感服しました。私も、支配地の為に、心を砕いてきて久しいが、少しも効果を得ていない。どのような秘策があるのか。」

と質問してきたので、私は、次のように答えた。

君主には君主の威光があるので、何か事を実施するのは至って簡単である。私は元々無能、無術である。しかしながら、君主の威光を用いても、或いは君主の学問を土台とした理解力があっても、実施できないであろう、茄子を成らせ、大根を太らせる術を、間違い無く体得しているので、その理屈を基本として、ただ一生懸命に努めて、怠らないようにしているだけである。

その結果、草ばかりであった場所が一変して、米が栽培できるようになった。この米が一変すれば、飯となる。この飯には、無心の鶏犬と言えども、走って集まり、犬は、尾を振れと命じれば尾を振り、回れと言えば周り、吠えよと言えば吠える。無心である鶏犬ですらこの通りである。

私は、ただ、この理屈を推して人々に及ぼし、日々の言動においては至誠を尽くすのみであり、特別な術があるわけではないのである。

その後、私が実地に行ってきた事を中心にして、談話すること六、七日に及んだ。

江川氏は、飽きずに良く聴かれた。

現在は、定めて、配下支配地区の為に、尽くされていることであろう。

 

と語っています。

また、この当時外国船が姿を見せるようになっていました。このころ日本近海に外国船が多く出没しており、国防に危機感を抱いていた渡辺華山や高野長英といった人々と交流を持つようになっていました。彼らは海防問題の改革を強く主張したいました。当時沿岸に備えた大砲は旧式で、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わる砲術を採用していました。そんな中西洋砲術を研究している高島秋帆を知り、西洋砲術を海防問題に生かす道を模索し、高島に弟子入りします。 そして老中水野忠邦より、正式に高島流砲術の伝授を認められ、それに改良を重ねた西洋砲術の普及に努め、全国各藩から派遣された藩士がこの西洋砲術を学びました。

嘉永6年(1853年)ペリー来航直後に感情吟味役に登用された英龍は老中阿部正弘の命

で、江戸湾防備の目的で砲台品川台場、今のお台場を建造しました。デートスポットで有名なお台場ですが、英龍がいなかったら、存在していなかったかもしれません。感謝です。またそれと同時に最新式の大砲を作るため、反射炉の建造を命じました。反射炉とは鉄鉄(鉱石から作った粗製の鉄で不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉です。

死鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となりますが、反射炉内部の溶解室の天井部分が浅いドーム型になっており、そこに熱や炎を反射させて、銃鉄に集中させることで高温にする構造になっています。 このように反射させる仕組みから反射炉と呼ばれています。

英龍はオランダの書物の記述のみを頼りに、反射炉の建造に取り組みました。英龍は反射炉が完成する前に病死してしまいますが、反射炉を建造していた佐賀藩の協力を得て、着工から3年半の歳月をかけ完成させました。


他には種痘の実施などがあります。天然痘飛鳥時代ころに日本に入ってきた疫病で、江戸時代にはしばしば流行し多くの命が失われていました。


そこで英龍は西洋から入ってきた天然痘の予防接種である種痘(しゅとう)を領民に推奨しました。


当時全く新しい予防法であったため、英龍は自分の子供に接種をさせることで領民の不安を払拭しようとするなどして、その普及に努めました。


また、英龍は日本で初めてパンを焼いた人物だといわれています。


国防の観点から考えると長期保存が可能な食料はとても重要なものでした。このパンは現在の食パンというよりは乾パンに近いようなものだったそうです。


ほかには、英龍は兵隊を訓練するため各種の号令をわかりやすいように翻訳させました。

それの名残で、現代でも、「気を付け」「前へ習え」「右向け右」などの号令として残っています。


いかがだったでしょうか?

私はこの江川太郎左衛門英龍を尊敬しています。

今一度、国防について考えて見てはどうでしょうか?

二宮金次郎の生涯

二宮金次郎1787年小田原藩足柄下郡栢山村(現在の小田原市栢山)の農家にうまれる。

幼いころは裕福であったが、金次郎が 5 歳の時南に、関東を襲った暴風で近くに流れる酒句川の堤が決壊し、金次郎が住む東栖山一帯が濁流に流されてしまいました。その影響で、田畑には砂が堆積し、家も流された。その後数年で田畑は復旧したが、借財を抱え、家計は貧しくなりました。

金次郎が 12歳のころ、父が眼病を患ったため、父の代わりに酒匂川の堤工事に従事するが、年少なため、他の大人と比べ働きが足りないと感じ、草雑を編んでそれを献上しました。

その2年後金次郎が14歳の時に父が亡くなったため、金次郎は矢佐芝(現南足柄市三竹)の山に、大学という本を読みながら、薪をとりに行き、夜は草雑を編み、それらを販売することで、弟2人母1人の一家4人の家計を支えました。

その2年後、貧困の中、金次郎が16歳の時に母がなくなりました。

金次郎は伯父(実の祖父)の萬兵衛に引き取られたが、再び酒匂川が氾濫し、金次郎の土地はすべて水害にあい、流出してしまいました。

金次郎は萬兵衛のもとで身を粉にして農業に励む傍ら、夜な夜な勉学に励みました。しかし、けちな萬兵衛は、「夜の明かりの元となる菜種油はただではない。農民に勉強は必要ない」と金次郎をしかりました。

そこで金次郎は菜種を譲ってもらい、それを栽培格して、菜種を増やし、取れた菜種と油を交換して、夜の明かりとし、勉学に励んだ。また、田植えの際余って捨てられていた苗を用水堀に植え、育て、米一俵の収穫を得ました。

このような倹約を行い、20 歳で家を再構し、田畑を買い戻し、得た田畑を小作にだすなどして収入を増加させました。

その後金次郎 22歳の時、自らの田畑を小作に出して、小田原の家老である服部十郎兵衛のうちに若党として奉公に出ました。これは服部家の子ども 3 人が藩校に通って学問をするときにお供できるからでした。もちろん正式に講義を聴くことはできませんが、漏れ聞こえる講義を聞き、 中国の四書や朱子学に触れることができたのです。 このころ金銭的に余裕が出てきた金次郎は、奉公先の仲間に借金を申し込まれました。この時、金次郎はお金を貸すだけではなく、貸したお金の返済を確実にするため、返済方法まで指導しました。ある女の人が借金を申し込んだときには、薪の節約の仕方を教えました。鍋の底につく炭を落として、三本の薪で鍋の底に火が丸く当たるように工夫して薪を節約し、 残りの火を利用して消して炭を作り、再利用するというものでした。さらに、残った薪を金次郎が買い取り、借金の返済に充てさせました。

金次郎が 29歳の時、借金を多く抱えていた服部家は、家政の立て直しを金次郎に依頼しました。

金次郎は依頼を受け 5 年間節約を行う計画を打診し、 計画には一切口出ししないことを条件に、立て直しを図りました。 服部家の収入は決まった額で固定されていたため、節約に励み、200両 (2000万円)あった借金を返済するようにしました。

服部家は計画通り、借金を無くしただけではなく、 余剰金まで生み出した。この際余剰金の 300 両(3000万円)を金次郎に送ろうとしたが、金次郎は受け取りませんでした。

これが評判になり、小田原藩内では名が知れ渡るようになりました。

金次郎が32 歳の時、領民の手本となる人として、小田原藩主である大久保忠真から酒匂川で表彰を受けました。この表彰は、模範となる農民として「家の再建に努力し、村のために働いた」ということで表彰されました。金次郎は、表彰には自然に人が見習うという効果と、さらに励むようになる効果があると知りました。

35 歳の時に、金次郎を見込んだ小田原藩主·大久保忠真は金次郎に小田原藩の再建を頼もうとするが、農民出身の金次郎の登用に家臣が反対したため、直接小田原藩に登用することはやめ、大久保家の親戚である旗本 宇津家の所有地である桜町領(栃木県真岡市)を復興させることを決める。まず、復興を成功さることで、小田原で登用させやすくするためである。この大久保忠真はなくなるまで金次郎の理解者であり、大きな後ろ盾となりました。

36 歳の時に桜町陣屋に赴任して再建を図るが、金次郎に反対する農民や、40歳の時に赴任してきた小田原藩士の上役である豊田正作をはじめ、上役となった小田原藩士に桜町の復興を妨害され、うまく進まないことに悲観した金次郎は41 歳の時に突如いなくなりました。

この失際は、金次郎が、自分は正しいのにもかかわらず、ことがうまく運ばないので、神仏に頼るしかないとおもい、誰にも告げず、千葉県の成田山に縮り 21 日間断食していたのでした。この断食修行で、一円融合という概念に気が付きました。世の中は、善悪、貧富、強弱、遠近、賃借など対立あるいは対称となっているものがいっぱいある。金次郎はこれをすべて一つの円に入れそれぞれが融合することにより、発展することを悟りました。自分の立場だけから、一方的に観るのではなく、対立するものを一つとしてみる。人は自分の好きな方に偏る性格を持っている。もともと一つの円のものにも己という境を立ててみるため、円は二つに分かれ、己は一方に固執してしまうものである。金次郎は一円融合を悟るまでは、自分が正しいと信じて、仕法を妨害する人は悪人だと思っていました。しかし一円融合を悟ってみるとそうではないことがわかりました。反対する人にはその人なりの理由があるし、そういう反対が出ることは、自分の誠意がたりていないからだと考えるようになりました。

金次郎がいなくなったため、農民らが困惑し、小田原藩主大久保忠真に金次郎に戻ってきてほしい旨を嘆願しました。その結果、金次郎は戻り、豊田正作は桜町陣屋詰めの任をとかれ小田原に召呼び戻されました。

この後、妨害していた農民や、豊田正作は心を改めました。

その後は復興が順調に進み、 桜町領の再建が成功した結果、小田原藩の立て直しを依頼されました。 この時金次郎が行った再建方法を報徳仕法と呼びます。金次郎が行った改革の中の一つに補助金の廃止がありました。今までは仁政を行うつもりで、金や穀物を与えていましたが、そうすることで、かえって惰民を要請してしまったのです。そこで金次郎は、荒地を開墾した田んぼに対しては5年間年貢を徴収しないようにするなど、がんばった人にたいしてマージンが発生するような政策に切り替えました。金次郎は、減税を行い、一切の補

助金を廃止することで、領内の再生を図りました。また、表彰制度を活用しました。正直でまじめな人を村民全員の帳票によって表彰し、表彰されたものには、銚や勤廉などの新しい農機具を与え、今後も表彰に恥じない努力を期待し、表彰されなかったものにはさらに努力してもらうようにしました。結果的に村民全員が表彰されるようにしました。また、名主なども表彰によって決めました。さらに借金で困っている人に対しては、報徳無利息金を貸し付けて助けたり、荒地を開拓するための資金援助を行いました。無利息金の貸付を受けた人は、その恩義をうけた謝恩の気持ちで、貸付を返済した後、返済金の1回または2回分の冥加金(おもいやりのお金)を収めることにしました。これを元金に加え、報徳無利息金を増やしていきました。また、金次郎は譲るという行為を非常に重要視していました。こんなことをいっています。例えば、田畑を買い、家を建てるのは、子孫に譲ることで、世の中の人が知らず知らずに行っています。自分に譲ることすなわち自譲は教えられなくてもできます。他に譲ることすなわち他譲は教えられなければ難しいことです。譲は結局自分の富を維持することにつながります。例えば、湯船の湯のようなもので、これを手で自分の方にかけば、湯は自分の方に来るだろうが、やがてみな向こうに帰る。これを向こうに押せば、湯は向こうに行くように見えるが、自分の方に流れてくる。獣のように譲らないのは人ではない。

天理に反するものはいつか滅亡する。富の蓄積は、あたかも土を盛るようなもので、周辺一面が低くて、一か所だけずば抜けて高く土を盛っても、少しの動播で崩れやすく不安定である。周囲が盛り上がって次第に高くなるのでなければ、安定しない。富士のすそ野が広いように、譲は自らの生活を安定させることになる。と語っています。

金次郎は天道と人道という思想を持っていました。自然の理を天道と呼び、人がいろいろと作為することを人道とよびました。金次郎は「天道は永久にすたれることはないが、人道は怠ればすぐにすたれるものであり、人道が廃れた人間の心は獣の心と同じである。自然の天道には良い悪いはなく、すべてのものに等しく影響を与え、差別はない。種があれば、雑草でも成長し、物が古くなれば壊れたり、腐ったりする。このため、雑草をとったり、堤防を築いたり、橋をかけ替えたり、家を修理したりしなくてはならない。天道のみに任せるのは、種を蒔かずに、ただ秋になる実を争って、食り食べるようなもので、奪うだけで譲ることはできない。天道の自然に逆らって種を蒔き、天道に従って成長させ、天道に反して肥料を与えて育成し、天道に従って秋に収穫して食べるのが人道である。人道の心を持てば残し、貯え、譲ことができる。それによっていろいろなものの生産量が増加し、五穀が豊かに実り、衣食が豊かになって、人は安心して生活できるようになるのである。しかし、 天道に逆らって人道をたてることは無限にできることではない。特に天道を破壊してはならない。なぜなら自然が変化し人道を建てることができなくなるから」 と説明しています。 また、人道についてはほどほどの中間がよいと考えました。

例えば、「高貴な人でも世の中から逃避するようなことをするのは、水車が水から離れるようなものである。人が教えても聞かず、義務も知らないで、私欲に走るのは水車全体を水の中に入れるようなものである。いずれも社会の役に立たない。水車はほどほどに水中に入って半分は水に従い、半分は水流に逆らってこそ廻るものである。人道は天道に従って成り立つものであって、人間は自然と闘いながら自然の恩恵によって生活できるものであるから、天道と人道は相和しなくてならない」といっています。

金次郎51歳の時大飢僅が襲うが、小田原藩が蓄えていた蔵の米を領民に配布することで、番内の飢餓を防ぐ。 このエピソードとして有名なのが、金次郎が小田原藩主の命により、小田原藩に入り、領民のためにお蔵米を開いて領民に配るよう藩の重臣に告げました。しかし、重臣たちは江戸の藩主から直接連絡がないため、結論を出しませんでした。これをきいた金次郎は怒って重臣にこういいました。「領民が飢えで苦しんでいるときに、君主の命令がないからと、評定ばかりしているのは不忠義ものである。命令がなくても後でお答めがあっても断行するのが政治をする者の務めである。もし評定を続けるのなら、飢えた人々を助けるためでもあるから断食をして続けたらよい。私もともに食を断ちましょう。」 といいました。

すると、金次郎の救済策が認められました。金次郎は直ちに下賜金千両に報徳金を加えて貸付を行いました。また、お蔵米を貸し付けたりして領民4万人の飢えをすくいました。

しかし、同年に金次郎の最大の後ろ盾であった小田原藩主が亡くなってしまいました。

その結果、まだ若い殿が藩主になったため、農民出身である金次郎に反感を持っていた反二宮金次郎派の藩士の意見が強くなり、小田原の再建は突如中止になる。

小田原の再建は中止になったが、56 歳の時、金次郎の評判を聞いた江戸幕府が、金次郎を幕府で登用することを決め、幕臣で働き始めました。

この時には金次郎を支持する人の多くが、金次郎に弟子入りしました。

金次郎は幕府から日光の復興を命じられました。日光は徳川家康をまつる日光東照宮のある2万石の神領でした。しかしながら、高地であったこともあり、田畑にするような土地が少なく、水田が少なく実際は2000石ほどしかありませんでした。天明の創肌僅後餓死者が続出し、離散する領民も多く、ますます、人口が減少して、荒廃していました。

金次郎は日光でも今まで通り仕法を行いました。3年をかけ、日光の89カ村と新田をくまなく調査し、日光仕法雛形書を完成させました。金次郎は完成させた仕法書64冊を幕府に提出しました。

金次郎が67歳の時いよいよ日光復興の仕法の着手が命じられました。金次郎の寿命が近いのは明らかでしたが、病をおして村内を自ら歩き、自ら指示を与えていきました。まず金次郎が行ったことは、農業用水の整備という公共事業でした。これにより荒地はたちまち農地となり、領民が自分のところにも新用水を分けてくれるよう金次郎に願い出るようになりました。ここで重要なことは領民のやる気を起こさせることでした。そのため、努力する者には報奨を与えました。

桜町同様に、金次郎は誠意をもって村を歩き、壊れた家屋があれば修繕するなどの処置をとり、農具を分け与え、無利息の資金を融通しました。その結果、堕落した、風潮はたちまち消え失せました。

その後さまざまな村を救い、日光での復興を行っている最中に病に倒れ、70歳で亡くなりました。

金次郎は、福島県相馬市、南相馬市大熊町浪江町飯館村、栃木県日光市、真岡市、那須鳥山市、神奈川県小田原市など全国600を超える地域の復興にかかわりました。

 

 

水の教え 氷の教え

先生はおっしゃった。 大道というのは、たとえると水のようなものだ。よく 世の中を潤して、停滞しないものである。 しかし、このように尊い大道も、文字にして書物にしただけでは、世の中を潤すことな く、役立つことはない。これはたとえば水が凍ってい るようなもので、もとは水には違い ないけれども、そのままの状態では潤すことができ ず、水の役目を果たすことはできない。 それから、書物の注釈というものは、この氷に氷柱が 下がっているようなもので、氷が 溶けてまた氷柱になるのと同じことだ。これも同様に やはり世の中を潤さず、水の役目を 果たしていないといっていいだろう。
さて、この水となった経書(『四書五経」など儒教の基 本的な教えを記した書物)を、世の 中の役に立てるには、胸中の温気によって、その内容 をよく溶かして、もとの水として用 いなければ、世の中を潤せず、実に無益なものになっ てしまうだろう。氷を溶かす温気が胸中にないのに、氷のまま使って水の役目を果たすも のだと思っているのは、たいへん愚 かなことだ。神儒仏の学者がいろいろいるけれども、 世の中の役に立っていないのはこの ためである。よく考えられよ。 だから、私の教えは、実行を尊ぶ。仏教の経文とい い、儒教経書といい、その「経」 というのは、機織をするときの縦糸"のことである。 機織は縦糸だけでは織ることがで きない。実行という 横糸"を毎日織り込んでいって、 はじめて役に立つのである。実行 という横糸を織らずに、ただ縦糸だけでは無益なこと は、説くまでもない明らかなことだろう。

 

両全の道

先生はおっしゃった。 世界の中で法則とすべきは、天地の道、親子の道、夫 婦の道、農業の道という四つの道 だ。この道は、実に両者が双方ともに完全な道であ る。どんなことでも、この四つの法則 を規範とすれば、間違いはない。
私がかつて、
「おのが子を 恵む心を 法とせば 学ずとても道に到ら ん」
と歌に詠んだのは、この心を指してのものだ。 天は生み育てる徳を下し、地はこれを受けて発生して いく。親は子を育て、損益を忘れ てひたすらその成長を楽しみ、子供は育てられて父母 を慕う。夫婦の間においても、お互 い楽しんで、子孫が相続していく。農夫は勤労して、 植物の繁栄を楽しみ、草木もまた喜 び繁茂する。みなお互いに苦しみがなく、喜びの気持 ちがあるだけだ さて、この道を規範として従うときは、商売は売って 喜び、買って喜ぶことができる売って喜び、買って喜ばないのは、道ではない。買って喜び、売って喜ばないの、釘はない。貸借の道も、また同じだ。借りて喜び、貸して喜ぶようにすべきだ。借りて喜び、貸して喜ばないのは、道ではない。貸して喜び、借り
て喜ばないのも、道ではない。
あらゆること、このように私の教えは、これを法則としている。だから、天地の生み釘てる心をわが心とし、親子と夫婦の情に基づいて損益を度外視し、国民が潤い、土地が復興することを楽しむのである。そうでなければ、私の行う事業はできないことなのである。
無利息金貸し付けの道は、元金が増加するのを長所とせず、貸付高が増加することを長所とするのである。これは利をもって利とせず、義をもって利とするという意味である。
元金の増加を喜ぶのは、利心である。貸付高の増加を喜ぶのは、善心である。こうして元金はもとの百円のままで、増 減がなく、国家国民のために莫大な
利益になる。 これはまさに、太陽が万物を成長させ、いつまでも太 陽は一一つの太陽でいるようなもの だ。古語(「孝経」広要道章)に「尊敬する対象は少人 数でありながら、それによって礼儀 正しい風俗が広まり、喜びを得る人たちが多くなる。 これが大切な道だ」とあるのに近い。 私がこの貸し付けの方法を立てたのは、世の中で金銀 を貸して返すように催促し尽くした後に裁判を願い、そうやっても取れないときになって、無利息年賦とするのが通例であ
る。だから、この理屈をまだ貸さないうちに見て、この方法を立てたのである。しかし、それでもまだ不十分なところがあるので、「無利息何年据置き貸し」という方法も立てたのである。 このようにしなければ、国を復興し、世の中を潤せな いからだ。すべてのことは、将来 行き着く先を事前に見定めることにある。人は生まれ たら、必ず死ぬものだ。死ぬものだ ということを、事前に覚悟しておけば、「生きている だけ一日一日がありがたい」と思え るだろう。これが、私の道の悟りである。 生まれ出て、死のあることを忘れてはいかん。夜が明 けたら、暮れるということを忘れるなよ。

鼠の地獄 猫の極楽

吉凶·禍福·苦楽·憂歓などは、相対して表裏一体のもの である。 なぜなら、猫が鼠を捕ったとき、猫にとってそれは楽 しみの極みだが、捕られた鼠にと っては苦しみの極みであるからだ。蛇の喜びが極まる とき、蛙の苦しみが極まる。鷹の喜 びが極まるとき、雀の苦しみが極まる。猟師の楽しみ は、鳥獣の苦しみである。漁師の楽 しみは、魚の苦しみである。 世界の事物はみなこのように、こちらが勝って喜べ ば、あちらが負けて悲しむ。こちら が田地を買って喜べば、あちらは田地を売って苦し む。こちらは利益を得て喜べば、あち らは利益を失って悲しむ。人間世界は、みなこんなも んだ たまたま悟りの門に入る者もあれば、これを嫌って山 林に隠れ、批世の中を逃れてこれを 捨てる者もいる。これでは、世の中の役には立たな い。その志や行動は尊いように見える 世の中のためにならなければ、褒めるに足らない。

ところで、あっちも喜びこっちも喜ぶという道がない わけではない。それは天地の道、 親子の道、夫婦の道、農業の道という四つの道だ。こ れは法則とすべき道だ。よく考えられよ。